誕生日は「文化の鏡」である...「ミニフェスのような誕生会」から見えた「個人」と「社会」
これに対して、日本の誕生日はどこか控えめだ。
誰かが「今日、誕生日だった」と告げても、「あ、そうだったんだ! おめでとう」で終わることも珍しくない。娘たちの通う日本の保育園の誕生会でも、歌をささやかに歌い、おもちゃのケーキで気持ちを共有する程度で終わる。
しかし、これが決して冷淡というわけではない。そもそも多くの日本人は、人前で盛大に祝われても、おそらく恥ずかしくて照れを感じたり、困惑してしまうのではないだろうか。
この祝い事とその認識の違いは、社会や文化の根底にある価値観に起因するのではないかと考えている。
ジョージアでは「個人の人生」を中心に祝い事が構成されているのに対し、日本では「社会の流れ」の中で祝われ、しかも「集団の時間」の一体感に意味がある。
祝い事が社会との接点となり、人との関係性を改めて再認識させる役割が、とりわけ日本では強く表れている。節分や花見、七夕、こどもの日などの四季折々の行事が地域や社会の中で祝われ、より重視されているのは、その最たる例だ。
私がかつて勤務していた日本企業は、スーパーマーケットとの取引が多かったため、季節行事に合わせた商品提案は欠かせない業務の1つであった。
1年の流れを頭に入れ、時期に応じた企画を常に考える先輩社員の姿からは、社会として祝い事を大切にする文化が日本に根付いていることに気付かされた。
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