
中東から贈る千夜一夜物語
トレッキング大国としてのヨルダン - 新たな客層をターゲットにして10年目

ヨルダンといえばペトラ、ペトラといえばヨルダン。あの「インディージョーンズ 最後の聖戦」に出てくる遺跡で一躍有名になりました。でもそのイメージが強すぎるのも事実です。ペトラ以外の見どころはあまり知られていません。いや、アラジンのロケ地としてワディラムも有名ですし、死海は言わずと知れた人気の観光地。
とはいえ、それ以外の見どころは? と聞かれてすぐに答えられる人というのはそんなに多くないでしょう。ヨルダンといえば砂漠と遺跡。あとは死海でちょっと浮いたら終わり。そんな感じで、2 泊 3 日などの弾丸ツアーで来るのも典型的な日本人のスタイルです。
ヨルダンが隠れたトレッキング大国だと知っている日本人の方はどれほどいらっしゃるでしょうか。ちなみにトレッキングの定義ですが、「山登りや山歩きなどを目的とし、美しい自然景観やそこに息づく動植物などの観察を楽しむアウトドアアクティビティ」といわれています。実はヨルダンには、国の北の端から南の端までを網羅したトレイルコースが整備されています。2022 年には、ナショナルジオグラフィック誌で「世界のベストハイキング トップ 15」の 1 つとしてヨルダンが紹介されています。 このトレイルコースは「The Jordan Trail」と呼ばれています。
The Jordan Trail について
ヨルダンで The Jordan Trail が整備されたのは 2015年。この The Jordan Trail は、ヨルダンの北はウンムカイスから南はアカバまでの区間に点々と整備されており、コースの途中で 75 の村や町を通過します。トレイルの長さは 675 キロで、全てを歩くと 40 日かかります。トレイルの整備やローカルガイドの育成を担っているのは Jordan Trail Association という NGO です。この NGO は、ヨルダンの雇用の創出、経済の発展、地域社会の活性を目的にして 2015 年に設立されました。
先に述べたように、ヨルダンといえば遺跡や砂漠というイメージが強く、多くのツーリストはヨルダンの多様な自然に触れることなくこの国を去ります。ところが実際にはヨルダンは多様性の点で他に類を見ないユニークな国なのです。北海道ほどの面積の国土を占めるのは砂漠だけではありません。 北部にはうっそうとした森林地帯や肥沃な渓谷が広がり、死海付近の険しい峡谷と荒涼とした乾燥地帯には温泉が流れています。ザクロやリンゴの産地もあります。
ツーリストが一般に訪れるのは南部の砂漠ですが、北部に行くと全く違った景色が広がっています。 またペトラの手前にあるダーナはヨルダン最大の自然保護区で、絶滅危惧種にも指定されているような希少な野生動物との出会いやバードウォッチングが楽しめます。このダーナ保護区には、800 種の植物と 449 種の動物の存在が確認されており、そのうち 25 種は絶滅危惧種といわれています。またこのダーナ保護区は、4 種の生物地理区 (地中海地域、イラノ・トゥラン地域、サハロ・アラビア地域、スーダン系生物要素) がこのエリアに含まれるという点でも非常に珍しい場所です。
遺跡や砂漠のために何度もリピートして戻ってくるツーリストは、いるとしてもそれほど多くないでしょう。よくヨルダンのペトラが「一生に一度は訪れたい遺跡」として紹介されることがあります。こうした表現からも分かるように、遺跡は一度来たら終わりという人が多いのではないでしょうか。でも自然愛好家たちやバードウォッチング目的のツーリストたちなら、四季折々の風景またヨルダンならではのユニークな風景を求めて何度も戻ってくることでしょう。では、新たな客層を獲得するために始まった The Jordan Trail という取り組みは成功しているでしょうか。答えは YES です。
もちろん、ヨルダンがこの取り組みに乗り出した 2015 年は、中東がまだ「アラブの春」で揺れていたころ。お隣のシリアではイスラム国が台頭し、とりわけ 2015 年は大量のアラブが難民として海を渡ってヨーロッパへと移動していったという点で歴史的な年。またこの同じ年にジャーナリストを含む日本人 2 人がシリアで殺害されました。アラブの春以降、世界中からのツーリストの数は減る一方で (日本からのツーリストはほぼ姿を消しました)、ヨルダン観光は冬の時期を迎えました。それでも、天然資源がないヨルダンから観光を取ったら何も残るものはありません。こうした理解が共有されていたため、ヨルダンはこの「冬の時期」にも地道な努力を続けることになります。
ヨルダンで目覚めたトレッキングの楽しさ
さて、ヨルダンに住んでいた私はヨルダンでトレッキングの楽しさに目覚めました。ヨルダンを去って 10 年以上が経ちますが、度々ヨルダンに足を運んでいます。それは、かの有名なペトラを見るためではありません。やはりトレッキングが目的なのです。トレッキングはいったんハマると、何度でもやりたくなります。新しいコースはもちろんのこと、前に歩いたコースでもお気に入りのコースには戻りたくなります。山登りと同じですね。こんな風にしてヨルダンにトレッキングを目的としてくるツーリストやリピーターたちは非常に多いです。
ちなみに The Jordan Trail の全てを 40 日間かけて攻略するというのはあまり現実的ではありません。一番いいのは、この The Jordan Trail に含まれるルートの一部を 1 日または半日 (あるいは数時間) で楽しむ方法。有名なのはダーナ保護区にあるトレイルです。半日から 1 日で楽しめるコースが幾つもあり、ダーナ保護区に何度も戻ってくるトレッカーたちがいます。もちろん私もその一人です。
なおここで付け加えますと、ペトラ遺跡もこの The Jordan Trail のれっきとしたコースの一部です。ですからペトラを観光するということは、実はトレッキングをしているのと同じことなのです。ハイカーとしてヨルダンに来るツーリストが増えるに従い、ペトラも「遺跡観光」としてではなく、「トレッキングルートとしてのペトラ」という地位を確立しつつあります。
こうしたヨルダンの自然に魅せられるトレッカーたちは、地元のベドウィンたちと協力して新たなトレッキングルートも生み出しています。2023 年 2 月には新たに「The Wadi Rum Trail」が整備されました。アラビアのロレンスの舞台ともなり、火星を思わせる岩がゴツゴツと突き出たこのユニークな砂漠を 10 日間かけて散策するものです。 ヨーロッパにはない、まさに「The 中東」という景色が広がるヨルダン。治安が非常に安定しているヨルダンは、各国のトレッキング愛好者をひきつけてやみません。

月面を思わせる異世界のワディラム - 筆者撮影
The Jordan Trail という取り組みの別の効果
この The Jordan Trail という取り組みの別の効果として、ローカルのヨルダン人たちの啓もうという点が挙げられると思います。この点はまだ改善が大いに必要な分野ですが、ごみのポイ捨てをしないよう地元のアラブ達を啓蒙する努力や、ボランティアたちによる一斉清掃が実行されるなど、自然保護のための取り組みが少しずつではあるものの浸透している感があります。
中東のアラブ諸国ではまだまだポイ捨ては普通のことですし、自然保護という概念からは程遠いのが現状です。自然愛好家たちが各国から訪れることはヨルダンにとって良い刺激になっているのではと思います。
トレッキング大国としてのヨルダンは実は新しいコンセプトではない?
ここまで書いて、トレッキング大国としてのヨルダンの取り組みは比較的新しいという印象を受けられた方もいらっしゃるかもしれません。ところが実はヨルダンには最古の「トレッキングルート」があるのです。そのルートの名前は「王の道」(King's highway または King's Road) です。
王の道は世界最古の通商路といわれており、何千年も前から存在しています。南はエジプトとアカバをつなぎ、ヨルダンを横断して北はダマスカスまで伸びていました。モアブ人、エドム人、アンモン人など聖書の創世記に出てくる数々の王国の住人たちがこの道を行き交いました。やがて西暦前 1 世紀ごろになると、ナバテア人の隊商たちがアジアやアラビア半島の南にまで通商路を拡大します。ペトラがナバテア人の首都として栄華を極めたのもこの頃です。
古くて新しいヨルダンのトレッキングルート。トレッキング大国としてのヨルダンの魅力は今後も増していくことでしょう。
ヨルダンのお勧めのトレッキングルートをご紹介
さてこの記事では、数あるヨルダンのトレッキングルートの中から、幾つかをご紹介したいと思います。ちなみにペトラ観光も立派なトレッキングルートなのですが、ここでは扱いません。
Wadi Ghuweir Trail (ワディ・グエイル・トレイル)
こちらは The Jordan Trail のコースからは少し外れますが「ヨルダン一美しいトレイル」ともいわれています。私が一押しのコースなので、最初にご紹介させてください。
ワディ・グエイルのハンギングツリー - 筆者撮影
難易度は Medium (中級者向け) で谷底を進む 6 時間のコースです。水の中を歩く部分が含まれますので、濡れても良い靴が必要です。冬の時期は水量が増すために、11 月から 3 月の間は閉鎖されます。岩山がコースの両側にそそり立ちますので、夏でもヒンヤリしています。見どころは、谷底にある緑が生い茂るオアシスで、岩の間から生えているヤシの木は「ハンギング'ツリー」とも呼ばれます。ヨルダンの別の魅力を満喫できるトレイルです。
Siq Trail (シーク・トレイル)
死海の南部にあるワディ・ムジブ自然保護区。シークとは峡谷の割れ目のことで、名前の通り、切り立った峡谷の間を進みます。トレイル自体は、2-3 時間で終了しますが、18 歳以下の子供は参加できません。このコースの特徴は、ウォータートレイルであること。つまり、コースのほとんどが水の中となります。くるぶしくらいの水量の場所もあれば、腰までつかるほどの水量の場所もあり。短いコースではありますが、幾つかの難関があり、単に歩くだけではなく、よじ登ったり、水しぶきを上げたり、滑り降りたり、ジャンプしたりなど、童心に帰った思いで楽しめます。

シークトレイルの最終地点 - 筆者撮影
かつてはほぼ無名だったこのコースも今では有名になり過ぎて、とにかく人が多く興ざめするほど。無名だったころの静けさが懐かしいです。幾つかの難関 (岩山) を乗り越えて、ゴールとなるのは勢いよく流れ落ちる滝。4 月から 10 月までしか開いていませんが、まさに前代未聞のアドベンチャー。ただし、もう人が多すぎて、ちょうど日本のオーバーツーリズムのようなイメージになってしまったのが難点。
Wadi Hasa Trail (ワディ・ハサ・トレイル)
前述のシーク・トレイルと同じく基本的にはウォータートレイルですが、岩山を乗り越えたりするアドベンチャー感はなく、自然を満喫しつつゆったりと進みたい方向けです。2-3時間で済ませることもできるトレイルで、ゴールというゴールはなく途中で引き返す形になります。夏はひんやり涼しく、冬はふんわり暖かく、年間を通してヨルダンの自然を楽しめます。

ワディハサのトレイル - 筆者撮影
Wadi Dana Trail (ワディ・ダーナ・トレイル)
ダーナ保護区にある 6-7 時間の健脚派トレイル。スタート地点は Dana Village で海抜 1200 メートルの位置にあり、ゴールは海抜 325 メートルの場所にある Feynan Eco Lodge (フェイナン・エコ・ロッジ)。最初の 1 時間でぐんぐんと山道を降りて行く格好になります。最初の急こう配を除けば、基本的には平たんなコースです。
ワディ・ダーナ・トレイルのコース - 筆者撮影
「Wadi (ワディ)」とはアラビア語で「谷」という意味ですが、その名の通り、岩山に囲まれた谷を突き進んでいきます。かつてはこの谷にも水がごうごうと流れていたのでしょう、谷間には今でも緑が豊かに茂っています。まわりはゴツゴツとした岩山で、気候も極度に乾燥しているこの地域。谷間に沿って生える緑が何ともいえずミスマッチです。夏の暑い時期には、こんな目が覚めるような青トカゲを見ることができるかもしれません。

トレイルの途中で見ることができた青トカゲ。King of Dana の風格でした - 筆者撮影
The Soap House Trail (ザ・ソープ・ハウス・トレイル)
北部のアジュルーンにあるトレイル。山と山の間を縫うようにして進むトレイルで、行きは右手にワディ (谷間) を見ながら進んでいきます。春の時期、この谷には花々が咲き乱れ、白い岩や積み上げられた石垣の間に緑の低木がポコポコと突き出ています。何とも牧歌的な、ヨーロッパをも思わせる雰囲気。とても可愛らしいトレイルです。
The Soap House Trail のコース - 筆者撮影
ゴツゴツとした岩山がそそり立ついわば男性的なダーナ保護区の風景とは全く違い、アジュルン保護区ではメルヘンチックで繊細な風景が楽しめます。

The Soap House Trail のコースの途中で見えてくる村 - 筆者撮影
ここに挙げたトレイルはほんの一部です。ヨルダンに来られることがあれば、ぜひ短いトレッキングにも挑戦していただければと思います。日本人の中にも、トレッキングを目的としてヨルダンに来られる方が増えることを願っています。

- 木村菜穂子
中東在住歴17年目のツアーコンサルタント/コーディネーター。ヨルダン・レバノンに7年間、ドイツに1年半、トルコに7年間滞在した後、現在はエジプトに拠点を移して1年目。ヨルダン・レバノンで習得したアラビア語(Levantine Arabic)に加えてエジプト方言の習得に励む日々。そろそろ中東は卒業しなければと友達にからかわれながら、なお中東にどっぷり漬かっている。
公式HP:https://picturesque-jordan.com