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イタリア事情斜め読み

ヴィズマーラ恵子|イタリア

イタリアにも到達したフェンタニル危機

Shutterstock- Sonis Photography

| 静かなる侵略者フェンタニルの正体と拡散の実態

医薬品から破壊兵器へ

フェンタニルという名前を聞いた時、多くの人々は単なる薬物の一種だと考えるかもしれない。
しかしながら、この物質の真の恐ろしさは、その出自にこそ潜んでいるのではないだろうか。元来、フェンタニルは合法的な医療現場で使用される強力な鎮痛剤であり、癌患者の苦痛を和らげる麻酔薬として開発されたものなのだ。

ところが、この医学的な恩恵をもたらすはずの化合物が、いつしか人類史上最も危険な薬物の一つへと変貌を遂げてしまったと筆者は考える。その威力たるや、モルヒネの50倍から100倍、ヘロインの30倍から50倍という圧倒的な強さを誇っているのである。

専門家たちが最も懸念しているのは、わずか2~3ミリグラムという微量でも致命的な結果をもたらし得るという点であろう。これは砂粒数個分の重さに過ぎない。このような極小の量で人の生死を左右するということは、使用者にとって適正な摂取量と致死量の境界線が極めて曖昧になってしまうことを意味しているはずだ。

|「ゾンビドラッグ」という異名の由来

なぜフェンタニルが「ゾンビドラッグ」と呼ばれるようになったのか。その答えは、この物質が人体に与える特異な影響にあると考えられている。使用者は意識を保ちながらも、周囲の現実から完全に切り離された状態に陥る。彼らは立ったまま、あるいは座ったまま、まるで生ける屍のように動かなくなってしまうのである。

医療関係者の証言によると、フェンタニルは「思考を溶かす」効果があるという。使用者は一時的に苦痛や不安から解放される感覚を得られるものの、同時に認知機能が著しく低下し、反応が極端に鈍くなってしまうのだ。このような症状から、街頭でフェンタニルを使用した人々が、まさにゾンビのような状態で発見されるケースが相次いでいる。

パドヴァ大学病院の麻酔医イーヴォ・ティベリオ氏は警告を発している。「極めて少量であっても、血中酸素不足により患者を死に至らしめる可能性がある」と彼は述べているのだ。この言葉は、フェンタニルの恐ろしさを端的に表現していると言えるであろう。


| アメリカを席巻した薬物危機

アメリカにおけるフェンタニル問題の深刻さは、もはや単なる薬物乱用の域を超えていると筆者は考えている。2022年の統計によれば、薬物による急性中毒死者数は10万人を超え、そのうち約7万3千人がフェンタニル関連の死亡であったとされている。これは一日当たり約200人が命を落としている計算になる。

このような惨状を受けて、カリフォルニア州をはじめとする複数の州では、フェンタニル密売者を殺人罪で起訴する法律が制定されている。サンフランシスコでは専門の緊急対応チームが設置され、24時間体制でフェンタニル関連の救急事態に対応しているという状況なのである。

特筆すべきは、この問題が単なる国内問題にとどまらず、国際的な政治問題にまで発展していることであろう。アメリカと中国の首脳会談においても、フェンタニル問題は重要な議題として取り上げられているのだ。これは、フェンタニルの原料や完成品の多くが中国から密輸されているという現実があるためである。

| 合成薬物がもたらす新たな脅威の構造

従来の薬物と比較して、フェンタニルが持つ最も危険な特徴は、その合成的な性質にあると考えられている。コカインやヘロインのような天然由来の薬物とは異なり、フェンタニルは完全に実験室で製造可能な化学物質なのだ。

この特性は、薬物密売組織にとって複数の「利点」をもたらしている。
まず、農作物の栽培が不要であるため、天候や地理的条件に左右されない。
次に、極めて少量で多数の商品を製造できるため、輸送コストと隠蔽のリスクを大幅に削減できる。
さらに、原料の調達が比較的容易であり、製造技術も他の合成薬物と比べて単純であるという現実があるのである。

イタリア・ロンバルディア州依存症対策技術委員会のコーディネーターを務める精神科医リッカルド・ガッティ氏は、この問題の構造的な危険性を次のように説明している。

「フェンタニルの拡散は需要によって始まったものではない。犯罪組織が意図的に市場に押し込んだものなのだ」と彼は指摘しているのである。これは極めて重要な観点であろう。
通常、薬物市場は使用者の需要に応じて形成されるものだが、フェンタニルの場合は供給者側の論理によって強制的に作り出された人工的な市場だと言えるのではないだろうか。


| イタリアへの到達:ペルージャでの衝撃的発見

2025年4月30日、イタリアの薬物警報システム(NEWS-D)は国内初となるフェンタニル検出の警報を発した。ペルージャで押収されたヘロインの中から、フェンタニルが混入されていることが国立衛生研究所(ISS)の分析によって確認された。

この発見は、イタリア当局にとって長年懸念されていた事態の現実化を意味していた。押収された薬物の成分分析では、ヘロイン50%、コデイン30%、ジアゼパム15%、そしてフェンタニル5%という配合が確認されている。わずか5%という数値に安心してはならない。前述の通り、フェンタニルの致死量は極めて少ないため、この程度の濃度でも十分に危険なのである。
フランチェスコ・ヴァイア保健省予防局長は、この発見を受けて緊急通達を全国の地方自治体に送付した。通達では、薬物依存症治療施設や地域保健サービス、治療共同体などに対して、使用者への警告を徹底するよう求めた。


| 偽造医薬品という新たな脅威

フェンタニル問題のもう一つの深刻な側面は、偽造医薬品市場への浸透である。
トリエステからミラノ、ローディに至るまで、偽造処方箋によってフェンタニルを入手しようとする事例が報告されているという。

特に危険なのは、正規の医薬品だと信じて服用する人々が、実際には致命的な薬物を摂取してしまう可能性があることだ。

オンライン薬局や「パラレル市場」と呼ばれる非正規ルートで購入された薬品の中に、フェンタニルが混入されているケースが確認されており、これは意図しない中毒死を引き起こす要因となっているのである。

イタリアの医療関係者は、この問題について次のような見解を示している。「フェンタニルは路上で売買される典型的な薬物ではない。薬局で入手可能な医薬品として認識されているため、使用者は危険性を過小評価しがちなのだ」


| 地政学的武器としての薬物:国境を越える脅威の実態

中国-アメリカ間の薬物外交

フェンタニル問題は、もはや単純な公衆衛生上の課題を超えて、国際政治の重要な争点となっていると言えるだろう。アメリカのアンソニー・ブリンケン国務長官が北京を訪問した際、フェンタニル問題は二国間協議の中心議題の一つとなった。これは、中国がフェンタニルの原料となる化学物質の主要な製造・輸出国であるという現実があるためである。

習近平主席がサンフランシスコを訪問した際にも、この問題は重要な議題として取り上げられた。このような高いレベルでの外交協議が行われているという事実は、フェンタニル問題が両国にとって看過できない重要性を持っていることを物語っているのではないだろうか。

しかしながら、専門家たちは中国だけを問題の根源とみなすことの危険性を指摘している。仮に中国が製造を停止したとしても、インドのような他の製薬大国が代替供給国として台頭する可能性があるという現実があるのだ。インドは豊富な人的資源と高い製薬技術を有しており、フェンタニル製造の新たな拠点となる潜在能力を持っていると考えられている。


| アフガニスタン情勢との意外な関連性

アフガニスタンでタリバンが政権を握って以降、同国におけるケシ栽培が大幅に減少したという報告がある。
一見すると、これは世界的なヘロイン供給量の減少につながる好ましい変化のように思われるかもしれない。
ところが、専門家たちはこの変化が逆説的にフェンタニル問題を悪化させる可能性があると警告しているのだ。天然のアヘンが不足することで、薬物密売組織は合成オピオイドであるフェンタニルに依存を深める可能性があるという分析だ。

リッカルド・ガッティ氏は、この問題について、「タリバンによるケシ栽培の禁止は、貯蔵されていた製品の枯渇を意味する。これは、ヘロインを他の合成物質と混合する必要性を生み出すことになるだろう」という見解を示している。

| メキシコ麻薬カルテルの戦略転換

メキシコの麻薬カルテルもまた、フェンタニル市場への参入を積極的に進めていると考えられている。彼らにとってフェンタニルは、従来のコカインやヘロインよりも「効率的」な商品なのである。

その理由は明確だ。まず、製造に必要な面積が極めて小さく、隠蔽が容易である。
次に、少量で大きな利益を生み出すことができる。さらに、強い依存性により安定した顧客基盤を確保できるという「メリット」があるのだ。

しかし、この戦略には明らかな矛盾が存在している。なぜカルテルは、年間7万人もの「顧客」を死に至らしめる商品を積極的に販売するのだろうか。この疑問に対して、リッカルド・ガッティ氏は興味深い仮説を提示している。

「これはもはや通常の商業的論理では説明できない現象なのだ。年間7万人の購買者を殺してしまうような商品を意図的に流通させるということは、単純な利益追求を超えた何らかの目的があるのではないかと考えざるを得ない」という。


|「武器化された薬物」という概念

一部の専門家たちは、フェンタニルが「武器化された薬物」として利用されている可能性について言及している。
これは、特定の国家や地域の社会基盤を意図的に破壊することを目的とした、新しい形の非対称戦争だという見方である。

この仮説が正しいとすれば、フェンタニル問題は単なる犯罪対策や公衆衛生政策の範疇を超えて、国家安全保障の問題として捉える必要があるだろう。実際、アメリカ国内でのフェンタニル蔓延が、同国の社会的結束と経済生産性に与える影響は計り知れないものがあるのだ。

労働力人口の薬物依存、医療費の増大、家族の破綻、地域社会の荒廃など、フェンタニル危機がもたらす社会的コストは、通常の軍事攻撃よりも深刻で長期的な影響を与える可能性があると筆者は考える。

| ヨーロッパへの波及:イタリアの位置づけ

ヨーロッパ連合の内務担当委員であるイルヴァ・ヨハンソン氏は、南米各国の内務大臣との会合において、フェンタニル問題について懸念を表明している。

彼女が特に警戒しているのは、フェンタニル製造カルテルと南米の薬物密売組織との間で締結される可能性がある「予備的合意」である。

南米の組織は、すでにヨーロッパへのコカイン密輸において確立されたルートと人脈を有している。もしこれらのネットワークがフェンタニル流通にも利用されるようになれば、ヨーロッパ全体が深刻な危機に直面することになるだろう。

イタリアは地理的に地中海の中央に位置し、アフリカ、中東、バルカン半島からのあらゆる密輸ルートの通過点となっている。この戦略的位置は、フェンタニル流入の観点からは極めて脆弱な条件を形成していると言えるのではないだろうか。

イタリアのペルージャで発見されたフェンタニル混合物について、専門家たちは特に懸念を表明していた。単純にヘロインにフェンタニルを混ぜたものではなく、何らかの「新しい製品」のテストである可能性があるというのだ。

このような複合物質は、従来の薬物検査や治療法では対応できない可能性がある。また、使用者にとっても、どのような物質を摂取しているのか全く予測できない状況を生み出してしまう。これは、意図しない過剰摂取や予期しない副作用のリスクを飛躍的に高めることになるだろう。

さらに深刻なのは、このような複合物質が「従来の薬物使用者」だけでなく、一般人口全体をターゲットとしている可能性があることである。合成薬物の性質上、あらゆる年齢層や社会階層の人々が標的となり得るのだ。

フェンタニルの検出と対策には、従来の薬物とは異なる困難さがある。

まず、極微量でも効果を発揮するため、従来の検査方法では見逃される可能性がある。次に、化学構造を微細に変更することで、既存の規制や検査をすり抜ける「設計薬物」を簡単に製造できてしまう。

イタリアの統計によると、2018年から2023年の間に、警察は123.17グラムのフェンタニル粉末、28個の錠剤、37個のその他の包装(パッチ、バイアル、薬箱)を押収している。これらの数字は、すでにイタリア国内にフェンタニルが流入していたことを示しているが、氷山の一角に過ぎない可能性があるだろう。

| 医療現場での対応課題

フェンタニル中毒患者の治療は、医療従事者にとって新たな挑戦となっている。アメリカの症例報告によると、フェンタニル吸引により白質脳症を発症した患者の事例が報告されている。

この患者は、ホテルの部屋で意識を失った状態で発見され、18日間にわたって寝たきりの状態が続いた。
尿失禁、腎臓損傷、認知機能の低下、オピオイド離脱症状、疼痛、興奮状態、肺炎など、多岐にわたる症状を呈したのである。
最終的に患者は26日間の入院を経て退院したが、完全な回復には約1年を要した。このようなケースは、フェンタニル使用がもたらす長期的な健康影響の深刻さを物語っている。

| 日本を巻き込むフェンタニル危機

地政学的前線としてのリスク

フェンタニルの脅威は、もはや遠い異国の問題ではない。日本経済新聞の独自調査によって明らかになった事実は、この問題が既に日本の国土に深く根を張っていることを示している。

中国系犯罪組織が名古屋市に拠点を設け、米国向けフェンタニルの不正流通を日本から指揮していたという報告は、日本が国際的麻薬取引の「中継地」へと変容しつつある危機的状況を浮き彫りにしているのだ。

この「拠点化」の構造こそが、最も深刻な問題であろう。
日本国内での活動は、現時点では「集配送」と「資金洗浄」の機能が主体となっていると考えられている。

幸いなことに、米国のような大規模な流通・消費拡大は確認されていないが、名古屋に拠点を置いたという事実は、アジアから米国への物流ハブとして日本が選ばれたことを意味しているのである。

日本の地理的位置、高度な物流インフラ、相対的に緩い監視体制、そして国際的な信用度の高さなど、複数の要因が犯罪組織にとって魅力的な条件を形成していると筆者は考える。しかし、このような状況が継続すれば、国内治安と国際的信用の両面で取り返しのつかない損失を被ることになりかねない。

更に憂慮すべきは、これらの組織が示す高度にシステマチックな運営構造である。
法人設立、偽装事業登録、多言語による通信管理など、彼らは日本の法制度の隙間を縫って活動する術に長けているのだ。
結果として、現行の薬物規制では十分に対処できていない可能性が極めて高いと言わざるを得ない。


| 日本の法制度の遅れとその深刻な脆弱性

日本の薬物取締法は、従来型の薬物犯罪を想定して構築されたものである。
「輸入・所持・譲渡」に焦点を当てた既存の枠組みでは、現代的な手口に対する備えが著しく不十分だと考えられている。「意図しない混入」や「サイバー空間での売買」、「海外向け指令の国内実行」といった新手の犯罪形態に対して、法的な対応が追いついていないのが現状なのだ。

特に深刻なのは、フェンタニルに代表される構造変化型のアナログ合成薬物への対応だ。
これらの物質は、わずかな化学構造の変更によって既存の規制を回避できるため、リスト化・規制のスピードが科学的検証の遅れにより著しく後手に回っているのである。

この状況が続けば、無名の新型フェンタニル誘導体が合法的に流通し、一般向けの通販経由で市場に出回るリスクが現実のものとなるだろう。米国で過去に発生した「オピオイド鎮痛剤の乱用から中毒へ、そして違法薬物への移行」という悲劇的な流れが、日本においても再現される可能性を否定できないのではないだろうか。

フェンタニル問題の地政学的構図を俯瞰すると、供給源である中国・メキシコ・アフガニスタンと、消費地である米国・カナダ・欧州、そしてその間に位置する中継地としての日本という三層構造で捉えることができる。

この構造において、日本の位置づけは極めて重要であり、同時に極めて危険でもあるのだ。
しかしながら、日本はこれまで日中間での薬物対策において積極的な外交対話を展開してこなかったという現実がある。

米国との間では一定の情報共有が行われているものの、実務面での連携、捜査当局・入国管理・税関・民間物流企業との間にリアルタイムの警戒ネットワークを構築するには、制度上の壁が数多く存在しているのである。
このような状況が継続すれば、「日本は法の緩い抜け道」として国際的な犯罪組織に利用される懸念が一層強まることになるだろう。また、仮に国内市場への浸透が本格化すれば、医療現場での麻酔薬保管や薬局での盗難、SNSでの偽薬取引など、複数の窓口で社会インフラが侵食される事態も想定しなければならない。

フェンタニル問題は、もはや単一の政策領域で対処できる問題ではなくなっている。公衆衛生、法執行、国際協力、社会保障、地政学的戦略など、あらゆる分野での包括的な取り組みが急務となっているのだ。

イタリアのペルージャでの発見、そして日本の名古屋での拠点確認は、この問題がヨーロッパとアジアの双方に同時に波及していることを示している。これらの事例は、単なる始まりに過ぎない可能性が高い。今後、各国がどのような予防策と対応策を講じるかが、国際社会の未来を左右することになるであろう。

日本にとって、この問題は国家安全保障の根幹に関わる重大な挑戦である。地理的優位性が犯罪組織に悪用されることを防ぎ、同時に国際的な信頼を維持するためには、法制度の抜本的見直しと国際連携の強化が不可欠だと筆者は考える。

国際的な協力なしには、この問題を解決することは不可能である。同時に、各国が自国の特殊事情に応じた独自の対策を講じることも必要だと思える。フェンタニル危機は、21世紀の人類が直面する最も深刻な挑戦の一つとなっているのではないだろうか。

 

Profile

著者プロフィール
ヴィズマーラ恵子

イタリア・ミラノ郊外在住。イタリア抹茶ストアと日本茶舗を経営・代表取締役社長。和⇄伊語逐次通訳・翻訳・コーディネータガイド。福岡県出身。中学校美術科教師を経て2000年に渡伊。フィレンツェ留学後ミラノに移住。イタリアの最新ニュースを斜め読みし、在住邦人の目線で現地から生の声を綴る。
Twitter:@vismoglie

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