World Voice

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悠久のメソポタミア、イラクでの日々から

牧野アンドレ|イラク

3年間のイラク生活を終えて

©筆者撮影

今年の11月、イラクでの3年間の駐在員職を終え日本へと帰国しました。

前職から数えて5年ほど日本を離れており、この年末年始の時期も久しぶりに実家で体験するので少し変な気分です。

イラクを離れたこともあり、このWorld Voiceでのブログ執筆もこの記事をもって終えることとなりました。

いつも読んでくださっていた読者の皆さん、ありがとうございました。

最後に、イラクでの3年間の生活を振り返って終えようと思います。

    

イラクでの3年間を振り返って

2019年8月に大学院を卒業し、10月にNGO職員としてイラク駐在を始めました。振り返ってみれば、最初からドタバタの連続でした。

駐在を開始して2週間、なかなか現地治安当局の許可がおりずに上司のアパートで仮住まいをし、渡航から3週間が経ちやっと自分の家となる部屋に引っ越しできました。

今思えば、ここで早速イラクの非合理的な官僚組織の実態をみた気がしました。

そして年が変わり2020年1月、イランの革命防衛隊コッズ部隊のソレイマニ司令官が米トランプ前政権によりイラクの首都で暗殺されたことに端を発し一気に両国の対立が激化。私の暮らすエルビル市内の国際空港(米軍基地が入っている)にもロケット弾が撃ち込まれる事態となりました。

ここで日本の外務省がイラクの全地域での危険レベルを最高に引き上げたことから、駐在開始2ヵ月で日本に退避することになりました。

危険レベル自体は1ヵ月後には引き下げられたのですが、そこで追い打ちをかけてきたのが新型コロナウイルス感染症の世界的な流行。

当時は中国や日本など、東アジアの国でしか感染が拡がっていませんでしたが、イラク当局は早々に日本からの渡航を禁止に。

この禁止措置は日本の外務省が危険レベルを引き下げてから3日後くらいに導入され、戻れると思った傍から自分の不運を恨んだのを覚えています。

結局、駐在員職なのに日本からのテレワーク勤務となり、まだあまり信頼関係も築けていない現地のスタッフたちとのやり取りを通した仕事が始まりました。

当時、イラク国内ではロックダウンが繰り返され支援事業にも多くの影響が出ていました。現場で直接関わることの出来ないもどかしさや、日本のように医療設備が整っていない現地のスタッフや友人たちの健康への心配が日に日に募っていきました。

時は移り2020年の8月、イラクが海外からの渡航禁止措置をやっと解除。半年ぶりの渡航が叶いました。

本格的な駐在開始はイラクの灼熱の夏と、不安定な電力・水事情を目の当たりにすることから始まりました。

2020年、そして翌年の2021年はイラクは深刻な水不足に陥っており、ダムに水が貯まらず水力発電は停滞。そして利用できる水自体も少なくなり、日に数時間の停電、そして断水もたまに発生しました。私が暮らしていた、中流階級以上が居住する地域のアパートメントでもこのような状態でしたので、一般市民の生活状況はさらに過酷なものでした。

2020年の夏、この頃からイラクでは新型コロナは「終わった」ことになり始めていました。度重なるロックダウンでイラクの貧困層に属する人口はそれ以前の倍になっており、政府も感染拡大防止のためのロックダウンを課せなくなっていました。

「病気で死ぬより、経済的困窮で亡くなってしまう」

この頃、人々からよく聞いた言葉でした。

第二波、第三波とコロナ感染の波は続きましたが、すでにコロナが過去のことになった2021年。

イラクでの生活にも馴染みはじめ、邦人の駐在員さんたちや国連の職員さんたちも戻ってきて、徐々に邦人会の活気も戻ってきました。

しかしイランが関わる民兵組織がイラク国内の米国権益を狙うドローンやロケット攻撃も散発的に増え始め、日常的な治安への影響は少ないものの、少し緊張の高まる日々が続きました。

この年の夏もまた酷暑に見舞われ、イラクの脆弱な公共サービスを直撃。一日に電気が全く届かない時間も多くありました。

10月には総選挙もあり、そこから1年近くも政権が発足しないという政治的な混乱も。もともとないに等しかったイラク市民の政治への信頼がさらに地に堕ちる事態となっていました。

とはいえ、何度か内戦勃発の手前までいってもそこで留まったことを見ると、「もう戦争はウンザリ」というイラクの人たちの想いも感じぜずにはいられませんでした。

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©筆者撮影

11月と12月にはクルド自治区で度重なる豪雨と洪水も起き、私の同僚の一人もその影響で家財道具一式を失いました。彼の近所では子どもも亡くなっていたことから「皆無事であった私たち家族は幸運だった」と話す彼の悲痛な顔を今でも思い出します。

この年の異常気象は、私の暮らしていたエルビル市内に20年以上ぶりの積雪という記録にも表れていました。

イラク北部の山岳地帯では豪雪になることも珍しくありませんが、平地で夏場には50℃にも達する市内での積雪に、おじさんたちが朝から雪玉を作ってはしゃいでいました。

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©筆者撮影

辛いことが多いように見えるイラクでの滞在ですが、もちろん素晴らしい体験もたくさんさせてもらいました。

イラク料理、特に北部のクルド料理はトマトベースの単純で豪快な料理が多いので、帰国してしばらくトマトを忌避するようになってしまいましたが、その全てが素材の力が活かされたほっぺたのとろける美味しいものばかりでした。

また秋口や春先に友人や同僚たちといくピクニック。ネットの届かないクルディスタンの大自然の中、みんなでBBQをし川で遊び、歌って踊る一日はまさに心が真から洗われる体験でした。

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©筆者撮影

イラクというまだまだ成長途上の国に暮らして、特に面白かったのは「社会の変化を日々感じる」という点でしょうか。

エルビル市内は3年前に比べ、多くの高層ビルが建ち、お酒を飲めるレストランが増え、そしてコロナ禍を経てデリバリーサービスが日常のインフラとなりました。

また一般市民では自転車に乗る人が増え、渋滞しがちな主要道路の車の間をスイスイと走る姿を多くみるようになりました。

ほんの20年前までは血生臭い内戦を経験し、10年前までは女性がジーンズを履くこと自体が珍しかったエルビルというイラク屈指の都市で、人々が新しいアイデアを慎重にもだいたんに取り入れている姿を間近で見ることができました。

そしてこの国の大半を占める若者たちの力強さ、活気も、多くのスタートアップ企業を通して知ることができました。

身体的にも精神的にも知的にも、イラクの3年間は間違いなく今後の私の人生に多大な影響を与えてくれました。

   

終わりに

これは日本に限らず世界中の知人・友人から聞かれることですが、「イラクのどこが好きか」と聞かれれば、間違いなく私は「人」と答えるでしょう。

イラク、特に北部のクルド自治区の人たちは外から来たお客さんに対してのホスピタリティに溢れ、彼ら自身もそれを誇りに思っています。

日本という物資に恵まれ、ご飯も美味しく、公共サービスも素晴らしく、四季もあり空気もきれいな国で育った私がイラクという厳しい環境の国で3年間も過ごせたのは、間違いなくイラクの同僚や友人たちの支えがあったからでした。

過去にも書いてきましたように、イラクという国はまだ課題に溢れ、貧富の格差も凄まじく、一般の人々も決していい環境で暮らしているとは言えません。まだ多くの人が戦乱の傷跡を癒し、復興の途上にあります。

3年間だけ関わっただけの身ですが。イラクの人々が、自分が生まれ育っ国に今後も住みたいと思えるような国に、いつかイラクがなってほしいと願っています。

冒頭で書きました通り、今回の記事をもってこちらでの連載は終えることとなりました。イラクへの旅行を計画したり、イラクという国に興味を持つ方々からもSNSでDMをよくもらうようになり、私のブログを通してこの国を知ってもらう嬉しさをいただいていました。

イラクに住む邦人の方々にも「この記事読んだよ!」や「このニュース知らなかった」など様々な反応をいただき、プレッシャーに感じつつも少し誇らしく感じていました。

この人情で溢れるイラクという国に、いつか戻ってきて役に立ちたいと思っています。

その時にはまた、このブログで読者の皆さんに報告できることを楽しみにしています。

読者の皆さん、1年半に渡り私の記事を読んでいただきありがとうございました。

よいお年をお迎えください。

   

 

Profile

著者プロフィール
牧野アンドレ

イラク・アルビル在住のNGO職員。静岡県浜松市出身。日独ハーフ。2015年にドイツで「難民危機」を目撃し、人道支援を志す。これまでにギリシャ、ヨルダン、日本などで人道支援・難民支援の現場を経験。サセックス大学移民学修士。

個人ブログ:Co-魂ブログ

Twitter:@andre_makino

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