
イタリア事情斜め読み
ミラノ・コルティナ五輪の暗雲
| 司法が政権の「五輪免罪符」を粉砕した日
2026年2月6日から22日まで、イタリア北部を舞台に22,000平方キロメートルを超える広大なエリアで展開されるミラノ・コルティナ冬季オリンピックは、オリンピック史上最大級の分散型大会だ。ロンバルディア州、ヴェネト州、トレンティーノ=アルト・アディジェ州が連携し、コルティナ・ダンペッツォ、ボルミオ、リヴィーニョなど複数の山岳地でアルペンスキー、スノーボード、ボブスレー、フィギュアスケートが繰り広げられる。世界のトップアスリートが集う一方で、準備段階から環境と経済の対立が表面化している。フランスのル・モンド紙が10月28日に報じたように、コルティナでは地滑りや樹木伐採が問題視され、ヴァルテッリーナでは観光ブームが進行中だ。この二つの顔が、2026年大会の本質を象徴している。
ミラノ地検は2024年から、組織委員会「フォンダツィオーネ・ミラノ・コルティナ」の入札不正を執拗に追っていた。焦点はデジタルサービス契約の二件だ。2021年3月にヴェトリア社へ190万ユーロ、約3億3700万円で落ちた契約と、2023年6月にデロイッテ・コンサルティングがさらった同種契約だ。捜査線上には元CEOヴィンチェンツォ・ノヴァリ、元幹部マッシミリアーノ・ズーコ、新任のマルコ・モレッティ、ダニエレ・コルヴァスケ、そしてデロイッテ側のクラウディオ・コルメーニャ、ルイジ・オノラートという面々が並び、入札妨害罪での立件は時間の問題だった。
ところが2024年6月11日、政府は「災害復興対策」を名目にした緊急法令に突然一条項を滑り込ませた。フォンダツィオーネは私的主体であり、公的機関ではないため公共入札規制は適用されない、という内容だ。これ一つで犯罪は消滅する。組織委は「捜査が契約を凍結させ、五輪が崩壊する」と泣きつき、メローニ政権は即座に盾となって立ち塞がった。検察は激怒した。災害と五輪がどう関係するのか、進行中の捜査を法令で潰すなど三権分立の否定だと、7月にノービレ判事に直訴した。
11月6日、パトリツィア・ノービレ判事は満を持して応えた。本法令は憲法第3条、法の下の平等、第24条、防御権、第111条、公正な裁判を侵害する明確な疑いがあると断定し、二つの捜査を即時凍結、全書類を憲法裁判所へ送付した。判断は早くても半年後、五輪はとっくに終わっている。検察が用意していた自爆プラン、却下されたら事件そのものを葬るという苦渋の選択すら不要になった。
組織委が公的機関であることは誰の目にも明らかだ。運営陣は首相官邸、ロンバルディア州、ヴェネト州、トレント・ボルツァーノ両県、ミラノ市、コルティナ町、CONI、パラリンピック委員会が全員を任命している。目的は国家レベルの公共利益の実現だ。そして最大の争点、リスク負担。定款には最終赤字は構成自治体が無限責任で負担すると明記されている。会計検査院は2023年だけで1億700万ユーロ、約189億円の赤字を認定し、最終債務者は国と地方自治体だと断言した。政府が持ち出すトリノ2006判例には赤字補填条項がない。完全に論破されている。この法令は無法地帯を生むだけだ。
コルティナの状況は深刻だ。9月に新設のキャビンケーブルカー「アポロニオ・ソクレペス」の最終支柱下で地表が裂け、亀裂は当初15メートルだったものが数週間で30メートルに拡大、両側の段差は約50センチに達した。ストラスブール大学の地質学者カーメン・デ・ジョンはル・モンド紙の取材に対し、気候変動による異常気象が重なれば雪解けや豪雨で地滑りが加速し、アスリートや観客の安全が脅かされると警告した。
2025年秋のイタリア北部は記録的な降雨に見舞われ、土壌の不安定化が懸念されている。住民たちはラツィオ州行政裁判所に提訴し、仮処分申請は却下されたが本案審理は継続中だ。ヴェネト州が地滑り危険区域の公式認定を出さない限り、裁判は進展しない。この法廷闘争は大会組織委員会のスケジュールに影を落としている。
気温上昇も大きな課題だ。1956年のコルティナ五輪では冬季の平均気温がマイナス3.5度だったが、2026年は気候モデル予測でプラス4度以上が予想される。自然雪の確保が難しく、人工雪の大量生産が不可欠だ。ル・モンド紙は雪不足を補うための人工雪システムが山の生態系にさらなる負担をかけると指摘し、貯水池の拡張や雪製造機の設置で水資源の消費が急増している。コルティナの水源はドロミテの湧水に依存しており、地元農家や観光業者は水不足が深刻化すると警鐘を鳴らしている。この状況は冬季オリンピックの持続可能性そのものを問うものだ。
議論の中心にある新ボブスレーコース「スライディングセンター」は総工費124百万ユーロ、約220億円をかけて建設され、ボブ、リュージュ、スケルトンの競技会場となる。場所はコルティナ郊外のフィアメス地区で、建設のために100本以上のラーチ(唐松)が伐採された。これらの木々は第一次世界大戦時にオーストリア軍とイタリア軍が戦火を交えた地域に生育し、戦後地滑りで壊滅した村々を防護するため土壌安定化目的で植林された歴史を持つ。ル・モンド紙はこれらのラーチは単なる木ではなく戦争の記憶と自然保護の象徴だったと書いている。伐採は2024年夏から本格化し、住民の反発を招いた。
この伐採に著名なチェリスト、マリオ・ブルネッロが抗議の行動に出た。2025年10月、リスボンでの公演を終えた直後、夜明け前にコルティナに到着し、伐採現場でバイオリンを構えバッハの無伴奏チェロ組曲を演奏した。楽器の木材は700年以上前に生育したメープルとスプルースで作られている。「私のチェロは木が永遠に歌い続けるためのものだ。なのに今、百年以上の巨木が政治と経済の都合で消される」と、ラ・レプッブリカ紙のインタビューで語り、イタリアのボブ選手は100人未満、コース維持には膨大な電力が必要でイベント後誰が責任を持つのかと問いかけた。ブルネッロの行動はSNSで拡散され国際的な注目を集めた。
住民の反対運動は2024年2月19日のロンコでの大規模デモでピークを迎え、数百人が集まり既存の海外コースを使え、コルティナはスキー場で十分だと訴えた。コルティナは2023年のBest Ski Resortsランキングで欧州トップクラスに位置づけられており、ボブコースの必要性に疑問の声が多かった。国際オリンピック委員会も当初コスト削減のため既存施設の活用を推奨していた。しかしイタリア政府と地元自治体は国内インフラのレガシーを重視し新コース建設を強行した。フランスのル・モンド紙はこの決定を白い象の典型と批判し、コースの冷凍システムは年間数百万キロワットの電力を消費し貯水池は12万立方メートルに拡張され人工雪のネットワークは山全体を覆う規模だ。
一方でオリンピックの経済効果はヴァルテッリーナで顕著に現れている。ボルミオとリヴィーニョがアルペンスキー、フリースタイル、スノーボードの会場となり観光需要が急増し、2025年秋時点でホテルの予約率は前年比30%以上アップ、特に長期滞在のオンライン予約が殺到している。
ソンドーリオ県の2024年宿泊者数は430万人で前年比7%増、外国人比率は41.5%に達し夏2025年も好調だった。観光局はオリンピック効果で通年型リゾートへの転換が進むと分析し、スキー以外のアクティビティである雪上ハイキング、温泉、地元料理体験も人気だ。レストランはビテッロ・トンナートやピッツォッケリなどの伝統料理を現代風にアレンジし持続可能な地元食材を前面に打ち出し本物の山岳体験を売りにしている。
このブームを支えるインフラ投資も進む。ロンバルディア州のロマーノ・ラ・ルッサ評議員は70万ユーロ、約1億2400万円の予算をソンドリオ県に配分し、国道38号線ステルヴィオ街道とその支線を対象に監視カメラの増設、交通監視の強化、緊急時の予防措置、警備員の配置拡大を行い国際イベントにふさわしい安全と効率性を確保すると述べた。州県市の連携で観光客の急増に対応する体制を整え、ヴァルテッリーナの住民はオリンピックは地域再生のチャンスと歓迎ムードだ。
しかしこの光と影のコントラストはオリンピックの根本的な課題を浮き彫りにする。1956年のコルティナ五輪は戦後復興の象徴だったがインフラのレガシーはほぼゼロ、鉄道は改善されず道路も渋滞のままだった。2026年も同じ道をたどるリスクがある。ル・モンド紙が指摘するように気候変動下の冬季大会は人工雪とエネルギー消費のジレンマを抱える。ボブコースが白い象になれば巨額の維持費が地元財政を圧迫するだろう。大会組織委員会は史上最も持続可能なオリンピックを掲げ再生可能エネルギーの活用、既存施設の再利用、輸送の電化を推進しているが、コルティナの現実は異なる。住民の声、科学者の警告、芸術家の抗議は無視できない。ヴァルテッリーナの経済効果も環境負荷を増大させる可能性がある。観光客の増加はゴミ問題、交通渋滞、水資源の枯渇を招くかもしれない。
結論としてミラノ・コルティナ2026は成功するか否か環境と経済のバランスにかかっている。コルティナの木々が倒れヴァルテッリーナが活気づく今、私たちは選択を迫られている。1956年の教訓を活かし2026年を真のレガシーにするには持続可能性を言葉だけでなく行動で示す必要があるだろう。雪は溶ける。残るのは人間の決断だ。腐敗捜査を封じる法令は三権分立を踏みにじる。イタリアは法の国なのか、それとも五輪のためなら何でもありなのか。憲法裁判所の判断が待たれる。世界が見つめている。





- ヴィズマーラ恵子
イタリア・ミラノ郊外在住。イタリア抹茶ストアと日本茶舗を経営・代表取締役社長。和⇄伊語逐次通訳・翻訳・コーディネータガイド。福岡県出身。中学校美術科教師を経て2000年に渡伊。フィレンツェ留学後ミラノに移住。イタリアの最新ニュースを斜め読みし、在住邦人の目線で現地から生の声を綴る。
Twitter:@vismoglie




