コラム

調査報道の英雄、ハロルド・エバンズにはもう会えない

2020年10月06日(火)17時35分

労働者階級出身で体制派と戦ったエバンズは、英ジャーナリストたちのヒーローだった(写真は2019年9月、NYのメディアイベントにて) Gary He-REUTERS

<サリドマイド事件を明るみに出し、ロシアとの二重スパイを暴き、イギリスを死刑廃止に導いた、新聞黄金期の伝説のジャーナリストと会うチャンスを、僕は永遠に逃してしまった>

人生、とても幸運なときもあればちょっと不運なときもある。僕がとりわけ残念に思っている不運の1つは、2007年にニューヨークでハロルド・エバンズと彼の自宅で対面するチャンスを、すんでのところで逃してしまったことだ。

僕は東京からニューヨークに転居するところだったが、仕事や他の理由やらで、出発日をほんの1週間かそこら早めてエバンズと彼の妻が主催する「オックスフォード大学セント・アンズカレッジOG&OBランチパーティー」に出席することはかなわなかった。

今年9月に92歳で亡くなったハロルド卿は、イギリスのジャーナリストたちのヒーローだった。彼が編集長だった時代のサンデー・タイムズ紙(1967~81年)の偉業は伝説になっている。なかでも、妊婦が服用したつわり治療薬が新生児に深刻な先天性障害を引き起こしたサリドマイド事件の真実を明るみに出したことは特筆に値する。この事件の「ニュース性」が薄れてから長い年月がたっても、彼は個人的にサリドマイド被害者たちと交流を続けた。

イギリスの諜報員でありながら実態はソ連のスパイだったキム・フィルビーについて、当局がひた隠す真実を暴露したことでも、彼はイギリス体制派と戦った。それは、若者がジャーナリズムの世界への憧れを募らせるたぐいの、大胆な調査報道だった。

彼の時代は新聞の黄金期だったと捉えられることが多い。全国紙は、最終的には成果なしで終わる可能性があるネタにだって何カ月でも尽力し、大事件だけに特化して専念する記者チームを組むだけの膨大な予算があった。各新聞社は、地方紙から経験を積みフリート街(英新聞界の中心地)に上り詰めた熟練の記者を多数抱えていた。「金属活字」の時代は印刷業者のストライキに悩まされた時代でもあり、そのせいで多くの素晴らしいスクープが読者の目に触れず失われたことは、つい忘れがちだ。

エバンズは労働者階級出身だったから、僕にとってはとりわけヒーローだった。当時は名の知れた専門職のほとんどが上流階級で占められていたが、ジャーナリズムは比較的実力主義だった。イギリスのジャーナリストが自らの仕事を「職業」というよりむしろ「商売」とか「技能」とか呼び、体制に対して「けんか腰」(あるいは「アウトサイダー的」)な態度を取った理由の1つもここにある。エセックス州で育った労働者階級出身者として、僕はエバンズや同じような境遇のジャーナリストたちを尊敬し、彼のようになりたいと熱望した。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

ドイツ銀、第3四半期は黒字回復 訴訟引当金戻し入れ

ビジネス

JDI、中国安徽省の工場立ち上げで最終契約に至らず

ビジネス

ボルボ・カーズの第3四半期、利益予想上回る 通年見

ビジネス

午後3時のドルは152円前半、「トランプトレード」
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:米大統領選 イスラエルリスク
特集:米大統領選 イスラエルリスク
2024年10月29日号(10/22発売)

イスラエル支持でカマラ・ハリスが失う「イスラム教徒票」が大統領選の勝負を分ける

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    秋の夜長に...「紫金山・アトラス彗星」が8万年ぶりに大接近、肉眼でも観測可能
  • 2
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」ものはどれ?
  • 3
    リアリストが日本被団協のノーベル平和賞受賞に思うこと
  • 4
    逃げ場はゼロ...ロシア軍の演習場を襲うウクライナ「…
  • 5
    トルコの古代遺跡に「ペルセウス座流星群」が降り注ぐ
  • 6
    大破した車の写真も...FPVドローンから逃げるロシア…
  • 7
    死亡リスクはロシア民族兵の4倍...ロシア軍に参加の…
  • 8
    中国経済が失速しても世界経済の底は抜けない
  • 9
    ウクライナ兵捕虜を処刑し始めたロシア軍。怖がらせ…
  • 10
    「ハリスがバイデンにクーデター」「ライオンのトレ…
  • 1
    秋の夜長に...「紫金山・アトラス彗星」が8万年ぶりに大接近、肉眼でも観測可能
  • 2
    死亡リスクはロシア民族兵の4倍...ロシア軍に参加の北朝鮮兵による「ブリヤート特別大隊」を待つ激戦地
  • 3
    大破した車の写真も...FPVドローンから逃げるロシア兵の正面に「竜の歯」 夜間に何者かが設置か(クルスク州)
  • 4
    韓国著作権団体、ノーベル賞受賞の韓江に教科書掲載料…
  • 5
    目撃された真っ白な「謎のキツネ」? 専門家も驚くそ…
  • 6
    ウクライナ兵捕虜を処刑し始めたロシア軍。怖がらせ…
  • 7
    逃げ場はゼロ...ロシア軍の演習場を襲うウクライナ「…
  • 8
    ロシア西部「弾薬庫」への攻撃で起きたのは、戦争が…
  • 9
    裁判沙汰になった300年前の沈没船、残骸発見→最新調…
  • 10
    北朝鮮を訪問したプーチン、金正恩の隣で「ものすご…
  • 1
    ベッツが語る大谷翔平の素顔「ショウは普通の男」「自由がないのは気の毒」「野球は超人的」
  • 2
    「地球が作り得る最大のハリケーン」が間もなくフロリダ上陸、「避難しなければ死ぬ」レベル
  • 3
    秋の夜長に...「紫金山・アトラス彗星」が8万年ぶりに大接近、肉眼でも観測可能
  • 4
    死亡リスクはロシア民族兵の4倍...ロシア軍に参加の…
  • 5
    大破した車の写真も...FPVドローンから逃げるロシア…
  • 6
    ウクライナに供与したF16がまた墜落?活躍する姿はど…
  • 7
    漫画、アニメの「次」のコンテンツは中国もうらやむ…
  • 8
    エジプト「叫ぶ女性ミイラ」の謎解明...最新技術が明…
  • 9
    ウクライナ軍、ドローンに続く「新兵器」と期待する…
  • 10
    韓国著作権団体、ノーベル賞受賞の韓江に教科書掲載料…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story