コラム

従軍慰安婦問題、いわゆる「河野談話」の訂正は可能か?

2013年01月07日(月)11時58分

 安倍政権がいわゆる従軍慰安婦問題に関して、「軍の強制連行があった」とする「河野談話」を見直すかもしれないという報道に関しては、韓国だけでなくアメリカの政界やジャーナリズムによる関心も高まっています。

 この問題に関する事実関係に関しては、私は池田信夫氏が様々な史料を参照しながら丹念に調査を続けて来た結論、つまり「軍による強制連行はなかった」という立場を取ります。

 では、問題になっている河野談話を訂正すればいいと考えるのかというと、こちらはそうは簡単ではないと考えます。この点に関しては、日本の政界や世論には根本的な誤解があり、注意深い議論をしないと、日本の国益を大きく損なう危険があるからです。

 誤解というのは、「軍による強制連行はなかった」という訂正に成功したとしても、全く「日本の名誉回復にはならない」ということです。一言で言えば「強制連行はしなかったが、管理売春目的の人身売買は行なっていた」という「訂正」を行なうということは、旧軍の名誉にもならないばかりか、そのように主張することで、21世紀の現在の日本という国の名誉を著しく損なうのです。つまり、日本という国は現在形で「女性の人権に無自覚な国」だという烙印を押されてしまうからです。

 仮にそうであっても、「強制連行の事実」さえ否定できれば、さすがに「性奴隷(sex slave)」であるとか、軍人による「強姦(rape)」という「汚名」は晴らすことはできるだろう、「河野談話見直し」という主張の背景にはそのような意図があるのだと思います。ですが、これも誤解です。

 性奴隷とか、強姦という言葉について、「狭義のそれには当たらない」ということが言いたくても、それは難しいからです。というのは、現在の世界的な人権の感覚からすれば、「本人の意に反して家族の借金を背負って売春業者に身売りされ、業者の財産権保護の立場から身柄を事実上拘束されている女性」というのは「性奴隷」以外の何物でもないからです。また「本人としては不本意ながら売春行為を事実上強要され、一晩に多くの男性の相手をさせられた」ということは「強姦」のカテゴリに入るのです。

 この点に関して言えば、現在日本を含む世界中でヒットしているミュージカル映画『レ・ミゼラブル』がいい例でしょう。ここでは、ファンティーヌという薄幸の女性がシングルマザーとして経済的な苦境から売春婦になっているという設定があるのですが、今回ファンティーヌを演じたアン・ハサウェイは「明らかに売春行為を強要されている」というシーンの中から、絶望の歌『夢やぶれて』を悲痛な演技と共に歌い上げています。

 このファンティーヌは決して銃剣で強要されて売春婦になったのではありません。幼な子の養育費として不当な金額を請求される中から、追い詰められていっただけです。ですが、売春相手の客に追い立てられる恐怖、そのような境遇に関する刺すような痛みの感覚をハサウェイは渾身の演技で訴えてきているのです。「狭義の強制はありませんでした。でも広義の強制はありました」という「訂正」が「名誉回復になる」という考えは、このファンティーヌの痛苦を否定するのと同じです。もっと言えば、この映画の持つ「未来への希望」というメッセージを否定することになります。

 こうした論点に関しては、「米軍も日本の占領にあたっては売春婦を用意させた」とか「ベトナム戦争に参戦した韓国軍も似たような行為をした」など「20世紀の後半になっても他にも例があるではないか」という「反論」も多く見られます。ですが、ここにも誤解があります。というのは、ここで挙げた米国や韓国の事例に関しては「大っぴらにはやっていない」のです。言い方を変えれば、必要悪として「大人の処理をした」ということです。

 これに対して日本での慰安婦問題に関する論調にある「狭義の強制連行はなかった」という主張は、裏を返せば「当時の法制や慣行に則した広義の強要はあった」ということであり、要するに「やっていたと堂々と認める」という話に他なりません。これは大変に異様なことです。20世紀に起きた「交戦地帯における兵士相手の管理売春の強要」を21世紀の国連加盟国の政府が「狭義の強要よりは反道徳的ではない」と主張する、それも「大っぴらに主張する」というのであれば、理解される可能性は限りなくゼロに近いと考えるべきでしょう。

 それでも、どうしても「河野談話の見直しをしたい」というのなら1つだけ方法があります。それは「狭義の強制連行や強要はなかった」という事実関係の訂正をするのと同時に、これとバランスを取るべく、「現代の価値観」に照らして、「広義の強制」つまり「事実上の人身売買であった管理売春が、派遣軍に帯同される形で行われていた」ということに関して、その反道徳性に対して厳しく批判をすることです。

 これに加えて、現代の日本は女性の人権という問題に極めて真剣に取り組んでいくという宣言を行う必要があります。女性の人権という点では、日本は実は様々な問題を抱え、先進国だけでなく中国を始めとする新興国との比較でも決して十分とは言えないのが実情ですが、とにかくここでは高らかに女性の人権の尊重を謳い上げるべきです。仮に「狭義の強制はなかった」という訂正がしたいのであれば、こうした点を誠実に述べることで初めて国際社会は聞く耳を持つと言えます。

 ここまで「仮にそうしたいのなら」というような「持って回った言い方」をしてきましたが、こうした表現でもお分かりのように、私は「談話の修正」には消極的な立場です。それは「事実誤認を放置する方が、問題を蒸し返すデメリットよりまし」という計算だけではありません。旧軍に対して過剰なまでに「名誉回復」を追求するという姿勢を続けることは、まるで日本の「国体=国のかたち」が戦前戦後で同一であるような誤解を与えるからです。そうなれば、「現在の日本も軍国日本と同一の枢軸ファシスト」だなどという、中国などの理不尽な批判を勢いづかせることになるからです。

 それはともかく、米国では1月に入って、昨年11月に選出された新議会が開会しています。この「第112議会」では女性議員の進出が目覚しく、上院では定員100名中20名、下院は定員435名中78名が女性という史上最高の人数となっています。間違っても「河野談話」の取り扱いを誤って、現在の日本という国そのものが「女性の人権の敵」として、米議会のターゲットにされるようなことがあってはなりません。

 この点に関しては、今月の訪米が実現するのであれば、それを契機として安倍首相とその周辺は理解してゆくのではないかと思われます。そうであるならば、国内外で「オモテとウラ」を使い分けるのではなく、今度こそ日本の世論に対して冷静な議論を喚起していただきたいと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

英インフレ率目標の維持、労働市場の緩みが鍵=ハスケ

ワールド

ガザ病院敷地内から数百人の遺体、国連当局者「恐怖を

ワールド

ウクライナ、海外在住男性への領事サービス停止 徴兵

ワールド

スパイ容疑で極右政党議員スタッフ逮捕 独検察 中国
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 2

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の「爆弾発言」が怖すぎる

  • 3

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバイを襲った大洪水の爪痕

  • 4

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 5

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 8

    冥王星の地表にある「巨大なハート」...科学者を悩ま…

  • 9

    「なんという爆発...」ウクライナの大規模ドローン攻…

  • 10

    ネット時代の子供の間で広がっている「ポップコーン…

  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 3

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた「身体改造」の実態...出土した「遺骨」で初の発見

  • 4

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 5

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 6

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 7

    「毛むくじゃら乳首ブラ」「縫った女性器パンツ」の…

  • 8

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 9

    ダイヤモンドバックスの試合中、自席の前を横切る子…

  • 10

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story