コラム

『インセプション』に見る日米文化「相互作用」の可能性

2010年07月26日(月)11時49分

 レオナルド・ディカプリオと渡辺謙の共演で話題となった映画『インセプション』(クリストファー・ノーラン監督)ですが、公開から10日間で1億4300万ドル(約125億円)という大ヒットになっています。抽象的なコンセプトのSFドラマとしては、この数字は異例とも言えるでしょう。例えば、2001年夏封切りという少し前の作品になりますが、スティーブン・スピルバーグ監督の『AI』などは最終的な北米での興収は7800万ドルに止まっています。『インセプション』はどう考えても『AI』よりも抽象度の高い作品であることを考えると、時代の流れを感じます。

 この大ヒット、様々な要因が考えられますが、何と言ってもノーラン監督の前作『ダークナイト』が映画史上に残るヒット作になり、観客に強い印象を与えていたということがあります。同じノーラン監督が、今度はディカプリオとケン・ワタナベを使って大作を撮ったというだけで、1億ドルぐらいの興収は自動的だったとも言えます。もう1つは、時代背景と世代の問題です。『AI』の時代には、あの程度のイマジネーションでもアメリカの市場では「難しい」という声がありましたし、人類が滅亡しても人工知能だけが悲劇的な生存を続けるというコンセプトが「無神論的」という批判を浴びてもいます。

 ですが、それから9年、つまり世代が9歳若返った現在、『インセプション』のような作品が幅広く受け入れられているというのは感慨深いことです。では、アメリカに何が起きたのでしょうか? 1つは「平和な時代」ということです。アメリカはアフガニスタンでタリバンの無害化ができずに戦争を継続していますが、時代の気分としては「平和」なのです。戦時のように、善悪の問題に飛び込んだり迷ったりする必要はないのであって、「無意識の心理という抽象性」をエンターテイメントとして楽しむだけの余裕があるのだと思います。

 もう1つは、「善悪二元論」と「人間至上主義」が少しずつ相対化されているという動きです。例えば、今回の『インセプション』はR(17歳未満は保護者同伴という成人指定)でなくPG-13(13歳以上鑑賞可)になっていることでも分かるように、ターゲットとしては高校生の市場を強く意識していると思いますが、例えば16歳(1994年生まれ)ということになると彼等の世代はポケモンのカードやゲームと共に育った世代であり、物心ついたときから、アニメ映画といえば宮崎駿作品や、ドリームワークスの「パロディ童話」であったりするのです。勧善懲悪のディズニーで育った世代ではないというわけです。

 そうした「多元論」的世界観へと移行するにあたって、アメリカの文化が影響を受けたのは何といっても日本文化だと思います。この『インセプション』の世界観に影響を与えた作品として、1999年からの『マトリックス三部作』がありますが、この『マトリックス』の世界観自体も、日本のアニメ、とりわけ押井守氏の作品や大友克洋氏の作品なくしては成立しないものだったとも言えると思います。

 例えば、この『インセプション』は冒頭いきなり日本語のダイアローグで始まり、日本の風景や新幹線の車内などがドンドン出てくるのですが、アメリカでは全く違和感なく受け止められています。渡辺謙が重要な役で最初から最後まで出ずっぱりなのも、そこには必然性があるのです。『バットマン・ビギンズ』でノーラン作品に出演した「縁」があるから渡辺謙なのではなく、とにかくこの世界観の背景には日本文化があり、そのために舞台の一部が日本ではなくてはならず、主要な役は「サイトー」という日本人でなくてはならなかったのです。

 そんなわけで、『インセプション』という作品そのものが、ここ10年間のアメリカが、日本のカルチャーに様々なものを学んできた一種の集大成だと言っても構わないでしょう。今度は、それを日本の目の肥えたファンが、改めて厳しく吟味する番だと思います。私はまだ1回見ただけで、ディティールの把握度は70%ぐらいなのですが、大いに楽しみつつも直感的に2つの問題については「ひっかかり」を感じました。1つは「渡辺謙の提案した作戦」というメインのストーリーと、「ディカプリオの家庭の悲劇」というサブのプロットの調和です。何回か見れば納得できるのかもしれませんが、今のところはもっとこの2つの要素がもう少し入り組むなり、一種の融合に至る方が妙味があるように思いました。

 もう1つは、多層化された世界(すみません。ネタバレを避けるためには詳しくはお話できないのです)の「つながり具合」と「切れ目の具合」にもう少し「メリハリ」があっても良かったという点です。この2つの点に関して、あるいは他にもあるかもしれませんが、とにかく日本のファンの厳しい意見が製作者サイドにフィードバックされる、あるいはアメリカの映画批評へ刺激を与えていくということがあっても良いように思います。

 例えば、『AI』の時は、日本のファンからは、全体的にも部分についても「甘さが目立つ」という声があったにも関わらず、結果的に日本での興収がアメリカを上回る結果となり、日本での売り上げで製作コストが回収できてしまった中で、スピルバーグには厳しい意見が届かなかったように思うのです。問題作の『ミュンヘン』を除けば、以降のスピルバーグは『AI』を越える切れ味のある作品は作れていないわけで、その意味でも今回の『インセプション』に関しては、様々な批評がフィードバックされることを期待したいと思うのです。

 それにしても、日米関係が冷え込んでいるとか、日本の若者がアメリカへの関心を失っているとか、色々なことが言われています。ですが、この『インセプション』という映画の成立と受容のプロセスを見ていると、異文化異言語同士の二国間関係で、これだけの広がりと深みを持ち、文化的な相乗効果も生んでいる関係というのは、人類史上余りないようにも思われるのです。いずれにしても、この作品に関しては、引き続き幅広い議論を期待したいと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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