コラム

日本は、サイバー・ハルマゲドンを待つべきか

2015年10月15日(木)17時10分


 そうはいいながら、タリン・マニュアルの議論は、浮き世離れした感がある。先述のジュネーブ条約の第一追加議定書の第48条もその例である。物理的な被害をもたらすようなサイバー攻撃の例はほとんどないとはいえ、情報窃盗を含む広義のサイバー攻撃の被害者には民間人や民間企業も多く含まれる。第48条が禁止しているのは軍による攻撃の話だから、そうした攻撃を実施しているのが軍でなければこの条項は適用されない。サイバー攻撃を担う軍が、他国の民間部門を狙う場合だけこの条項が適用されることになり、かなり適用範囲は狭いということになる。

グレー・ゾーンのサイバー・エスピオナージ

 スパイによるスパイ活動(エスピオナージ)は国際法のグレー・ゾーンにある。政府対政府、あるいは軍対軍のスパイ合戦は、戦争を防ぐための必要悪ともいえる。2015年6月、米国政府の人事局(OMP)から大量の個人情報が盗まれたことが分かった。米国政府は中国の仕業とほぼ断定しているが、9月の米中首脳会談でも直接的な議題にはしなかった。米国政府が中国政府にやめるように求めているのは、中国政府機関が米国の民間企業にスパイ活動を行い、中国企業を利するようなサイバー攻撃である。

 民間のサイバースパイが民間のサーバーからデータを盗み出そうとする場合、ジュネーブ条約は適用されない。それは不正アクセスやデータの窃盗という犯罪であり、戦争行為とはいえない。

 しかし、誰だか分からない者たちに情報を盗まれるのを看過するわけにはいかない。世にいうサイバー攻撃のほとんどは武力攻撃ではない。誰がこれに対処するのかが難問である。サイバー攻撃の被害者の多くは、自分が被害者だという事実に気づいていない。被害に気づいたとしてもそれを公表したがらないし、警察に被害届を出したがらない。被害届が出て初めて警察は動くことができる。まして軍隊は明確な命令がなければ動けない。

 かくして、犯罪と軍事行動のグレー・ゾーンにあるサイバー攻撃に対処するのは、インテリジェンス機関になる。米国の国家安全保障局(NSA)、英国の政府通信本部(GCHQ)はいうまでもなく、韓国では国家情報院(NIS)、ドイツでは情報セキュリティ庁(BSI)、ロシアでは連邦保安庁(FSB)、中国では国家安全部といったインテリジェンス機関がサイバーセキュリティにおいて中心的な役割を担っている。

 日本の場合、警察庁は2012年の「パソコン遠隔操作事件」の苦い教訓を受けて猛烈にサイバー犯罪対策に力を入れており、自衛隊もまた2014年3月にサイバー防衛隊を組織した。最も欠けているのがインテリジェンス機関によるサイバーセキュリティへの取り組みである。

ハルマゲドン・シナリオ

 平和安保法制の審議にあれだけもめたことを考えれば、インテリジェンス機関の強化が簡単に進むとは考えにくい。しかし、もし何かサイバー攻撃による大きな被害が生じれば、「政府は何をやっているのか」という批判の声が上がるに違いない。日本政府のインテリジェンス機能強化を求めてきた人たちの間には、「ハルマゲドン・シナリオ」という言葉がある。何か決定的な大きな事件が起きれば一気に対策が進むに違いない、逆にいえば、それがなければ何も進まない、という意味である。

 これはなんとも不健全である。サイバーセキュリティという点では、もはや平時はない。常にグレー・ゾーン事態だといっても過言ではない。今のうちから必要な対策の強化を進めるべきだろう。事件の直後のパニックの中での制度改革は時に行き過ぎる。冷静な議論ができるうちにやっておくべきである。

 サイバー攻撃のためにマウスをクリックするのはもはや正規軍だけではない。無数の攻撃者を事前に抑止し、特定する能力が求められている。

プロフィール

土屋大洋

慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授。国際大学グローバル・コミュニティセンター主任研究員などを経て2011年より現職。主な著書に『サイバーテロ 日米vs.中国』(文春新書、2012年)、『サイバーセキュリティと国際政治』(千倉書房、2015年)、『暴露の世紀 国家を揺るがすサイバーテロリズム』(角川新書、2016年)などがある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

高市首相「首脳外交の基礎固めになった」、外交日程終

ワールド

アングル:米政界の私的チャット流出、トランプ氏の言

ワールド

再送-カナダはヘビー級国家、オンタリオ州首相 ブル

ワールド

北朝鮮、非核化は「夢物語」と反発 中韓首脳会談控え
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:高市早苗研究
特集:高市早苗研究
2025年11月 4日/2025年11月11日号(10/28発売)

課題だらけの日本の政治・経済・外交を初の女性首相はこう変える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読み方は?
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    だまされやすい詐欺メールTOP3を専門家が解説
  • 5
    9歳女児が行方不明...失踪直前、防犯カメラに映った…
  • 6
    【クイズ】1位は「蚊」...世界で「2番目に」人間を殺…
  • 7
    【クイズ】12名が死亡...世界で「最も死者数が多い」…
  • 8
    筋肉はなぜ「伸ばしながら鍛える」のか?...「関節ト…
  • 9
    虹に「極限まで近づく」とどう見える?...小型機パイ…
  • 10
    【ウクライナ】要衝ポクロウシクの攻防戦が最終局面…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読み方は?
  • 4
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 5
    【話題の写真】自宅の天井に突如現れた「奇妙な塊」…
  • 6
    【ウクライナ】要衝ポクロウシクの攻防戦が最終局面…
  • 7
    女性の後を毎晩つけてくるストーカー...1週間後、雨…
  • 8
    【クイズ】1位は「蚊」...世界で「2番目に」人間を殺…
  • 9
    中国レアアース輸出規制強化...代替調達先に浮上した…
  • 10
    熊本、東京、千葉...で相次ぐ懸念 「土地の買収=水…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になり…
  • 5
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 6
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 7
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 8
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 9
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 10
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story