コラム

iPS細胞技術を育んだ日本人の「生命観・自然観」とは?

2012年10月09日(火)10時22分

 いわゆるiPS細胞(人工多能性幹細胞)発明による京大の山中教授のノーベル賞受賞は、世界的に見ても当然過ぎるほど当然であると受け止められています。と言いますか、ヤマナカとかiPSという名前の方が、「ノーベル医学生理学賞」という面倒な名前よりも知名度があり、このあたりで賞を出さないと賞の方が格好がつかないというぐらいであったように思います。

 ところで、このiPSという技術は、アメリカ社会から見ていますと、汎用性の高いヒトの細胞をヒトの「受精卵」ではなく、ヒトの「皮膚細胞」から作ってしまうという点が画期的です。これによって、アメリカの宗教保守派に強くある「受精卵の利用は胎児殺しと同じ」という価値観に引っ掛かることなく、高度な細胞レベルの医療が可能になるからです。

 勿論、この技術は山中教授という天才による発見であり、それ以上でも以下でもないと思います。ですが、その研究の環境を提供したということでは、他でもない山中教授本人が述べているように、日本という場がプラスに作用したのは事実だと思います。客観的に見れば、それはカネとか研究設備という問題だけでなく、生命倫理とか自然観という意味で、日本社会はこの種のテクノロジーに対する抵抗が少ないということでしょう。

 確かにこのiPSへの切実なニーズは、保守派が受精卵の利用について頑強に拒否してきたアメリカのほうが強いのかもしれません。ですが、自由な研究環境ということで言えば、そこに生命倫理の問題で保守的な視線を浴びることの少ない日本の方が良かったのではないかと思われます。少なくとも、このiPSに関して、いやそれ以前の受精卵利用のES細胞に関しても日本では抵抗感はそれほどないように思われます。

 そこで気になるのが、日本人の生命観や倫理観の問題です。

 元来、日本人の価値観には「ありのままの自然」を大切にし、「人為」へは疑いの目を向けるという思想があったように思うのです。無農薬野菜を有難がり食品添加物を忌避する、公害を心から憎み、臓器移植には疑いの目を向けていた、というような判断のパターンにはそうしたものが感じられます。

 こうした傾向は、ここ数年、強まっているように見えます。例えば、昨年2011年の東日本大震災以降の放射線への過敏なまでの忌避という現象は、その最たるもののように思えます。人間の五感に訴えない放射線から「身を守る」には、抽象的な論理と機器の示す数字に頼るしかない、つまり人為によって生まれた危険を回避するにも人為を必要とするわけで、核分裂反応というものは、その全てが「人為」であることで忌避されたようにも思えます。

 似たような問題に関しては、遺伝子組み換え植物の問題があります。危険性に関しては、受粉による品種改良と遺伝子操作の間に大きな違いはないのです。ですが、そうした「理屈」を越えたところにある遺伝子組み換え植物への激しい抵抗感というのは、やはり「人為」への拒絶反応、また「あるがままの自然」への執着というカルチャーの問題ということであると思えます。

 ですが、その同じ日本人がどうして「iPS細胞」という究極の「人為」は受け入れるのでしょうか?

 今回、山中教授の受賞を契機に、この問題を考えていた私は1つの仮説に行き当たりました。

 現代の日本人が持っている生命観・自然観の根底にあるのは、人為を忌避して「あるがままの自然」に執着するという価値観とは少し違って来ているようです。

 それは「自己の生命への本能的な執着」なのだと思います。

 例えば、東日本大震災の結果として、原発という「人為」への忌避は起こりましたが、津波への対策としての「巨大堤防」への忌避というのは起こりませんでした。同じように、人為であり、それも日本人が気にする「目に見える」ものであり、それどころか大規模な景観破壊であると言われてもおかしくない「巨大堤防」は「人為」であることを理由に忌避されることはなかったのです。

 ということは、放射線への忌避、遺伝子組み換え植物への忌避というのも、人為への拒否反応というよりも、五感に訴えることのない「危険」から自分の身を守るための極めて本能的な反応なのだという理解の方が正確なように思われます。そう考えてみると、今回の「オスプレイ忌避騒動」もこのカテゴリに入ってくるように思います。イデオロギー以前の本能的な反応というわけです。

 逆に、この「iPS細胞」に関しては、人間に「自己の生命の危険」をもたらすよりも、難病の治療などを通じて、むしろ「自己の生命を保全する」という価値を感じ、そのために「究極の人為」でありながら、現代の日本人は認めているのだと考えることができます。

 先ほど、この「iPS細胞」技術に関しては、日本のカルチャーが一神教的なドグマから自由であるために、こうした生命倫理に関係する領域の研究にも良い環境となったというような見方を紹介しました。この考え方は、ある程度は当たっているようにも思います。

 では、日本の生命観・自然観が宗教性を排したニュートラルなもので、そのまま世界標準になり得るのかというと、どうもそうでもないようです。現代の日本人が持っている生命観・自然観が「自己の生命への本能的な執着」から来ているのであるならば、それはニュートラルな位置からは少し「ズレている」という認識を持ったほうが良いように思われるからです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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