コラム

改めて「ゆとり教育」を問う

2012年04月16日(月)11時20分

 文科省の新しい「脱ゆとり」の教科書を見る機会がありました。例えば今回新版になった中3数学の教科書などでは、全体が妙に分厚くなっています。中身について言えば90年代の本来の中3の内容までは戻っていません。ですが、因数分解のテクニックなどは塾の教科書並みに詳しく、正に思考より訓練を強化すれば「財界も親も文句はないだろう」的な主体性のなさすら感じます。

 ちょうどそんな折、『ミスターゆとり教育の反論』というタイトルで、元文科省の寺脇研氏のインタビューが朝日新聞(デジタル版)に出ていました。いい機会ですから、ここで「ゆとり教育」の総括をしておこうと思います。

 インタビューの中で寺脇氏は、「ゆとり教育に、私は信念をもっている。その理念の中心は、知識を詰め込む従来の教育を転換し、自ら問題発見をして解決策を探し出し、自ら主題を設定して学べる人間を育てること」だと述べています。

 また、2008年の同様のインタビュー(ダイヤモンド・オンライン)では「1970年代までの経済成長期には、製造業を中心とした企業が、均一な質の労働者を必要とした。命じられたままに仕事をこなす労働者を育成するには、詰め込み式で「読み、書き、計算」がきちんとできる人材教育でよかった。しかし、今は違う。第三次産業で必要なのは、「自分の頭で考え、付加価値を創造する力」を持った人材だ。そうした人材は、詰め込み式の教育では育たない。」という言い方をしています。

 100%同意します。現在の日本経済の競争力低下は、こうした改革に失敗したためであることは明らかだからです。現在の日本の労働力は、単純作業についてはコスト競争力を失う一方で、高度付加価値の創造で最先端の競争をする能力は足りないからです。私はこの一点において寺脇氏を支持します。

 ですが、ゆとり教育が失敗だったということは、議論の余地はないと思います。この点において寺脇氏には責任もあると思います。では、どうして失敗したのか、以下に改めて箇条書き的な整理をしておこうと思います。

(1)付加価値を創造する能力とは何かの定義が曖昧でした。因果関係のストーリー把握、情報収集の質・量・効率、仮説と検証による精度の詰め、抽象概念と具体的な事象との連動・・・そうしたスキルのブレイクダウンを全くせず、したがって教え方のメッソドもないまま実行に移したというのは、息継ぎを教えずに子供をプールに放り込むようなものです。しかも、プールサイドで叫んでいる教師も泳げないわけで、これでは溺死者が続出する、つまり付加価値創造力が教えられなかったのも当然です。プールを埋めて(総合学習を止めて)英語だとか道徳に走る学校も多かったわけですが、要するに先生が誰も泳げなかったからでしょう。

(2)付加価値創造のスキルを教えるためには「詰め込み教育を止めろ」というのが暴論でした。命令に基づく単純な作業の反復と比較して、自ら付加価値を創造するためには、より広範な情報、より高度な基礎スキルが必要なのは明白だからです。寺脇氏は「読み書き計算」ではダメだと言っていましたが、「読み書き計算」をやらなくて良いのではなく「グローバルなコミュニケーション、相手を説得する表現力、微積分を使ったダイナミックな計量」が必要な時代だという認識が欠けていました。昭和の時代にある教育者から「吹奏楽も基礎ができて初めて思い切り吹ける」という比喩を習ったことがありますが、正に基礎のない「騒音の塊」からは付加価値など生まれないのです。

(3)付加価値創造のスキル教育というのは、基礎スキルの完成を待つというだけでなく、世界との対決や和解という概念を経験した思春期以降に加速させるべきなのです。ところが実際は逆でした。思春期以降は旧態依然とした受験勉強に若者を押し込め、思春期前の「コドモ」に「おままごと」としての「総合学習」を与えていたわけです。しかも「どんな価値もオッケー」的な価値相対化という毒も回っており、これではメリハリの利いた抽象概念の操作など教えられるはずもないわけです。

 もういいでしょう。批判としてはこれで十分だと思います。問題は、「ゆとり教育」が破綻したからといって、旧態依然とした「記憶と訓練」メソッドに戻して、内容を増やせばいいという「逆改革」の方向性がこれでいいのかということです。

 私は「脱ゆとり」ではダメだと思います。抽象概念の操作スキルは教えなくてはなりません。同時に教科内容はもっと加速しなくてはなりません。

 全員が対象にならないのであれば、どんどん能力別を入れていくことも含めて、小学校で方程式を入れ、中学から高校の最初で微積分を通過してその先へ行くようにしなくてはダメだし、高度な数学と理科の連携やそもそもサイエンスの学習内容の英語化も必要だと思います。その上で、十代の半ば以降の若者を、正規の教育の中で「科学の限界」あるいは「哲学宗教と科学の接点としての生命倫理」という問題と向きあわせ、真剣な将来設計としての進路を自ら選び取って、国際社会に貢献して行くようにして欲しいのです。

 このまま「脱ゆとり」だとして、計算や漢字ドリルばかり大量にやらせる教育が横行し、やがて円安になって労働力の国際競争力が回復すれば、再度日本はモノづくりの拠点として繁栄するのでしょうか? そんな未来像はナンセンスです。資源とエネルギーのない日本は、円安に振れながら大量生産の拠点として中国やインドに対抗できる競争力を回復することはないからです。

 真の意味で社会を成熟に向かわせ、高付加価値の創造というエコノミーを育て、そのカネが国内に回ることで内需も高付加価値を志向する、これに加えて輸出産業の地盤沈下も食い止める、これで1億2千万がやっと「食べて行ける」のではないでしょうか?

 この間の「ゆとり」は失敗でした。一方で「脱ゆとり」という逆行でもダメなのです。本当の意味で「高度な付加価値を創造する」スキルを教えて行く教育が求められます。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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