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プーチンで思い返す対ヒトラー「宥和政策」の歴史
チェンバレン元英首相(前左)はドイツに対する宥和政策でヒトラーの要求を認めた(1938年9月) By Bundesarchiv, Bild 183-H12751 / CC BY-SA 3.0 de
<ヒトラーを勢いづかせた、当時の英首相ネビル・チェンバレンの「宥和政策」はあまりに非難されているが、現代の国際社会はプーチンに対して何をしてきたのか>
僕は大学で歴史を専攻したから、ちょっとした歴史オタクだ。そんな僕が気になって仕方ないことの1つが、ネビル・チェンバレン元英首相と、彼のヒトラーに対する「宥和政策」が、いかに誤解され不当に非難されてきたか、という点だ。
彼の宥和政策は、何があろうと疑いなく間違った政策だった。だがそれは、主に歴史を振り返る中で明らかになった。宥和政策が第2次大戦を止められなかったこと、そして実際にはヒトラーの攻撃性と拡張主義を助長するだけだったことを、僕たちは今よく理解している。
それでも、正しく理解することが必要だろう。チェンバレン(首相在任期間1937~40年)は、一般的には軟弱で臆病で愚かな男と見られている。でも他の視点で見れば、彼は何であれ可能な手段を駆使してヨーロッパでさらなる戦争が起こることを阻止しようとした、真っ当な人物だった(第1次大戦の大量殺戮は、ほんの20年前だったのだ)。
そもそもチェンバレンはヒトラーによる残酷な要求に何でも屈したわけではない。彼のヒトラーに対するはなはだしい「降伏」の最たる例は、1938年にドイツのズデーテン地方併合を認めたことだった。事実上、チェンバレンは領土の一部をドイツに割譲することをチェコスロバキアに強いたことになる。でもここに、一定の論理が存在する――この地方は人口の50%以上がドイツ系だったのだ。
国境線を引き直すに当たって、彼は「民族自決」の原則で動いたとも言える。つまり、ドイツ人はドイツ国家で暮らすようにさせよ、というわけだ。民族自決は、ウッドロー・ウィルソン米大統領が1918年に提唱した14ヵ条の平和原則の1つで、世界の平和的秩序を意図したものだった。
ヒトラーが続いてチェコスロバキアの残りの領域を1939年3月に占領した際(この時はもはや正当化できる理由は何もなかった)、時すでに遅すぎではあるが、チェンバレンはヒトラーに対する政策を180度転換した。イギリスでも本格的な再軍備が始まった。イギリス(とフランス)は、ドイツに侵攻された際には援助するとの保障をポーランドに与えた。これは口約束ではなく、事実、ドイツがポーランドに侵略した1939年9月にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。
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