コラム

イギリス「高インフレ」の戦犯は

2011年08月03日(水)15時18分

 数週間前、携帯電話のプロバイダーからお知らせのメールが来た。通話料を1分21ペンス(約27円)から25ペンス(約32円)に引き上げるという。

 今年の初めには、エセックスの外れからロンドンまでの列車運賃が22ポンド(約2800円)から23.50ポンド(約3000円)に値上がりすると聞いて震え上がったばかりだ。そして今月、ガスと電気料金の大幅値上げも発表された。

 イギリスの消費者がインフレ時代のまっただ中で暮らしていることは誰が見ても明らかだ。なおかつ言っておきたいのは、他の先進国と比べても、ただでさえ物価がやたらと高いのに、その上さらに大幅にはね上がるケースが多いということ。

 例えばエセックスからロンドンまでの乗車賃が6.8%上がったことにより、言うなればニューヨーク―プリンストン間(ほぼ同じ距離)より約40%も旅費が高くつくことになってしまった。

 単純に言えば、この国の中央銀行であるイングランド銀行は(英政府の暗黙の了解のもとに)、彼らが考えるところの「穏やかなインフレ」が進行するのを許している。だがイングランド銀行には物価の上昇を2%の「インフレ目標水準」に収める責務があるから、これは明らかに義務不履行だ。

 イングランド銀行は、「中期的に」2%のインフレ目標を達成できるように金利を設定する役目を担う。言い換えれば、今の状況だけでなく経済の動向を見極め、景気が減速しているときは金融緩和し、過熱し始めたら金融引き締めに転じなければならない(金融引き締め政策は、「パーティーが盛り上がり始めたところで食器を下げる」役目だと例えられることがよくある)。

■損をするのは堅実な人々

 イングランド銀行の英金融政策委員会は今、板挟み状態になっている。景気は非常に弱っているのに、インフレ率は高まっている。

 事実、今月のインフレ率は目標値の2倍以上の4.2%だ。過去60カ月のうち、目標値を上回っていたのはなんと51カ月。それも、1ポイント以上上回っていることがよくあった。今年中には、インフレ率は5%に達する可能性が高い。

1ポイント程度なら目標値を上回っても大したことはないように見えるかもしれない。けれども、インフレが続くと物価は指数関数的に上昇することを忘れてはいけない。長期にわたってインフレ率が目標値を上回り続けると、物価は雪だるま式に膨れ上がり、目標値をキープしている場合と比較するととんでもなく高くなる。

 インフレ率を目標範囲内に戻しても、一度上がった物価が下がるわけではない。だから、インフレ率4%の状態が4年間続いた後でインフレ率を2%に抑えられたところで、4年間ずっと2%をキープしてきた場合とは、物価は大きく異なってしまう。それまでの物価上昇は「もう済んだこと」だと片付けられ、元に戻そうということには決してならない。

 インフレは「歯磨き粉のようなもの。いったん絞り出したらチューブに戻すのはとてもむずかしい」という有名な例えもある。ひとたびインフレ期待が定着すると、賃上げ圧力も高まり、「インフレスパイラル」が起きると危惧する経済評論家も多い。

 日本ではもちろんデフレが深刻で、「デフレスパイラル」の危険性は僕もよく分かっている。けれどもインフレスパイラルよりデフレスパイラルのほうがまだましだという点が、少なくとも1つはある。

 いまイギリスの銀行に預金すると、最も利回りが良くても金利は約3%(税引後は2.4%になる)。インフレ率が年4%を超えていれば、どう見ても預金の価値は日々目減りすることになる(1万ポンドの預金が3年もすれば事実上ほぼ500ポンドも目減りしてしまう計算になる)。

 金融危機後、イングランド銀行は景気刺激策として政策金利を0.5%に引き下げた(350年の歴史で最低水準だ)。さらに、量的緩和(要するに、紙幣を発行して増やすこと)にも踏み切った。

 今のインフレは、ある程度こうした極めてルーズな金融政策が招いたものだと言えるし、政策金利を引き上げればこのインフレを抑制できるということも明らかだ。けれども、イングランド銀行は頑として金利を上げない。

 僕の見るところ、その理由はこうだ。イングランド銀行は経済全体の流れをにらみ、2つの選択肢を考えている。1つは、多少インフレ率が高くても目をつぶり、いつか収まるのを待つというもの(「神頼み」戦略)。もう1つは、景気回復の息の根を止めるリスクを冒して、インフレを抑制するというものだ。

 金融危機に至るまでの10年間、イギリスでは不動産バブルが吹き荒れ、数多くのイギリス人がローンを組んで借金まみれになった。今は金利が極端に低いおかげで、こうした人々はどうにかローンを返済し続けることができている(住宅ローンの金利は通常、政策金利に連動している)。さらに、住宅ローン金利の低さが、住宅価格を下支えしている。

 政策金利が正常なレベル近く(3~4%)に戻れば、こうした多くの「ゾンビ持ち家オーナー」はローンを払えなくなって、家を手放さざるを得ない。それ以上に「担保割れ」のケースが山ほど出る。

 イングランド銀行は、景気悪化とインフレの2つの悪を天秤にかけ、インフレのほうがまだましだと判断したようだ。政府としても、多くの人々が家を手放し、住宅価格が下がれば、有権者の支持を失うから何としてもそれは避けたい。

 結局のところイングランド銀行は、インフレで日々預金が目減りしていく堅実な人々を犠牲にして、バブルに踊った負債者を「救済」している、というわけだ。

プロフィール

コリン・ジョイス

フリージャーナリスト。1970年、イギリス生まれ。92年に来日し、神戸と東京で暮らす。ニューズウィーク日本版記者、英デイリー・テレグラフ紙東京支局長を経て、フリーに。日本、ニューヨークでの滞在を経て2010年、16年ぶりに故郷イングランドに帰国。フリーランスのジャーナリストとしてイングランドのエセックスを拠点に活動する。ビールとサッカーをこよなく愛す。著書に『「ニッポン社会」入門――英国人記者の抱腹レポート』(NHK生活人新書)、『新「ニッポン社会」入門--英国人、日本で再び発見する』(三賢社)、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』(NHK出版新書)、『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』(三賢社)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

NY外為市場=ドル下落後切り返す、FOMC受け荒い

ビジネス

10月米利下げ観測強まる、金利先物市場 FOMC決

ビジネス

FRBが0.25%利下げ、6会合ぶり 雇用弱含みで

ビジネス

再送〔情報BOX〕パウエル米FRB議長の会見要旨
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、日本では定番商品「天国のようなアレ」を販売へ
  • 2
    中国は「アメリカなしでも繁栄できる」と豪語するが...最新経済統計が示す、中国の「虚勢」の実態
  • 3
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェイン・ジョンソンの、あまりの「激やせぶり」にネット騒然
  • 4
    1年で1000万人が死亡の可能性...迫る「スーパーバグ…
  • 5
    【クイズ】世界で最も「リラックスできる都市」が発…
  • 6
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 7
    燃え上がる「ロシア最大級の製油所」...ウクライナ軍…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    中国山東省の住民が、「軍のミサイルが謎の物体を撃…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサイルが命中、米政府「機密扱い」の衝撃映像が公開に
  • 4
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 5
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 6
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「なんて無駄」「空飛ぶ宮殿...」パリス・ヒルトン、…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story