コラム

警官と市民の間に根深い不信が横たわるアメリカ社会の絶望

2020年06月02日(火)14時20分

この小説『Long Bright River』の舞台は、そういった典型的な現代アメリカを代表しているようなフィラデルフィアだ。ドラッグ依存症の父に見捨てられ、母とは死別した2人の少女MickeyとKaceyは、母方の祖母に育てられた。姉のMickeyは教師から「天賦の才がある」と言われて奨学金を受けて大学に進学しようとするが、高学歴の者に徹底的な不信感と敵意を抱く祖母はMickeyが大学教育を受けることに強く反対し、必要な書類に記入するのを拒否する。

進学の道を閉ざされたMickeyは、高校生のときにメンターになってくれた警官の進言で警官になる。しかし、この地域では警官は「敵」とみなされている。特に、ドラッグ依存症になって、路上で売春している妹のKaceyやその友人たちにとってMickeyは許せない裏切り者になったのだ。

この不信感は、『ヒルビリー・エレジー』の舞台であるアパラチアであれ、ペンシルバニア州最大の都市であるフィラデルフィアであれ、現在暴動が起こっているミネアポリスであれ、同じなのだ。

なぜなら、本来なら住民を守るべき警察や警察官が、性的搾取をしたり、私腹を肥やしたり、ミネアポリスの事件のように、犯罪を犯したことが明らかではない者や反抗していない者をいとも簡単に逮捕したり、殺したりするからだ。

21世紀のアメリカ社会の現実

ミネアポリスの暴動でも、白人の若者たちが店を襲撃しているのを黒人が止めている事実が記録されている。なのに、警官が到着したときには、その場にいた黒人たちが濡れ衣を着せられる。暴動を生中継していたCNNの黒人レポーターが、「望む場所まで移動しますよ」と冷静に話しかけているのに逮捕された映像も多くの人が目にした。

スマートフォンが普及して映像がSNSで流布するようになり、これまで隠されていたこのような事実が可視化され、警察が公平で公正であることを誰も期待しなくなっている。

この小説の主人公Mickeyは、正義感があるシングルマザーの警官だ。子どもの父親をあてにせず、頼りにならないベビーシッター、自分を敵視する上司、信頼できない同僚らに囲まれてストイックな人生を送っている。それなりに問題は抱えているが尊敬に値する人物なのに、誰からも鬱陶しがられている。どこの集団でも、長いものに巻かれようとしないからだ。巻かれてしまったほうが簡単だけれどもそうできない苦しさを、Mickeyの視線から痛いほど感じる。

彼女は忽然と姿を消した妹を心配して探し始めるのだが、妹の友人でさえ助けようとはしない。加えて、同僚の警官たちにも触れられたくない部分があるようで、姿が見えない大きな敵の存在を感じるようになる......。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ノキア、米国で40億ドルのAI関連投資を計画

ワールド

インド中銀、追加利下げの余地「確かにある」=総裁

ワールド

トランプ米大統領、ムスリム同胞団支部のテロ指定手続

ワールド

日中、米国とそれぞれ電話首脳会談 国連に書簡も送付
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界も「老害」戦争
特集:世界も「老害」戦争
2025年11月25日号(11/18発売)

アメリカもヨーロッパも高齢化が進み、未来を担う若者が「犠牲」に

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるようになる!筋トレよりもずっと効果的な「たった30秒の体操」〈注目記事〉
  • 2
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネディの孫」の出馬にSNS熱狂、「顔以外も完璧」との声
  • 3
    老後資金は「ためる」より「使う」へ──50代からの後悔しない人生後半のマネープラン
  • 4
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 5
    海外の空港でトイレに入った女性が見た、驚きの「ナ…
  • 6
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 7
    「搭乗禁止にすべき」 後ろの席の乗客が行った「あり…
  • 8
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 9
    【銘柄】イオンの株価が2倍に。かつての優待株はなぜ…
  • 10
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 1
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 2
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR動画撮影で「大失態」、遺跡を破壊する「衝撃映像」にSNS震撼
  • 3
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判殺到、そもそも「実写化が早すぎる」との声も
  • 4
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やって…
  • 5
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 6
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」…
  • 7
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 8
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネ…
  • 9
    AIの浸透で「ブルーカラー」の賃金が上がり、「ホワ…
  • 10
    海外の空港でトイレに入った女性が見た、驚きの「ナ…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 4
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 7
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 8
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 9
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story