コラム

映画『泥の河』に隠されたテーマ 巨大な鯉は死と再生のメタファー...だけではない

2022年01月26日(水)20時55分
『泥の河』

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<1956年、誰もが貧しかった大阪で交錯する2つの家族──小栗康平監督が作品全体で暗示するのは、少年の成長だけではない>

サンフランシスコ平和条約が発効してから4年が過ぎた1956年。朝鮮戦争の特需をきっかけに、日本は高度経済成長へと向かおうとしていた。「もはや戦後ではない」はこの年のキーワードだが、逆に言えばそう唱えなければいけないほどに、まだ誰もが貧しい時代だった。

大阪の安治川河口にあるうどん屋の一人息子である信雄は、同じ9歳の喜一に橋の上で出会う。2人の服装はいつもあかじみたランニングに半ズボン。この時代の男の子の基本的なファッションなのだろう。でも信雄には、粗末な掘っ立てではあるけれど家があって、父と母もいる。

喜一に父はいない。泥とヘドロが堆積する安治川に浮かぶ小さな木造船で、母と2歳上の姉と共に暮らしている。姉と弟は学校に行っていない。最低限の生活インフラからこぼれ落ちた存在だ。

船の中で区切られた小さな部屋に暮らす母親の笙子は、この世界の人とは思えないくらいに妖艶で美しく、喜一たちと一緒に遊んでくれてありがとうとほほ笑むが、信雄は何も答えることができない。

笙子のなりわいを察した信雄の父・晋平は、夜にその船に行ってはいけないと、息子に言う。でも晋平と妻の貞子は幼い姉と弟を家に呼び、自分たちの子供のように温かくもてなした。最初は喜んでいた姉の笑顔が、小さなワンピースを貞子から渡されかけてこわばった。施されることへの幼いいら立ちと抵抗に、晋平と貞子は気付かない。

物語は信雄の視線を軸に展開する。楽しみにしていた天神祭。手をつないで露店を見て歩く信雄と喜一は、もらった小遣いをいつの間にか落としてしまう。落ち込む信雄を船の家に誘った喜一は、びっしりと小さな蟹(かに)がはい回る竹ぼうきを泥の河から引き上げる。ランプの油を塗られて火を付けられた蟹は燃えながら逃げる。蟹は3匹。そして2つの家族もそれぞれ3人。蟹を追った信雄は船の小さな窓から、裸の男とむつみ合う笙子の姿を目撃する。男に組み伏せられながら信雄を見つめ返す笙子。

9歳の信雄は死と性に気付きかける。そして戦争で多くの人が死んで深く傷ついた日本は、すぐ隣の国で始まった戦争をきっかけに、経済成長のステップを上がり始めている。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

米の大寒波、数十億ドル規模の保険損失に=UBS

ワールド

ドネツク問題解決に向け活発な作業、「非常に困難」と

ビジネス

ウェイモ、年内にロンドンで自動運転タクシー開業目指

ワールド

トランプ氏、イランに核交渉要求 「次の攻撃は甚大」
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:高市 vs 中国
特集:高市 vs 中国
2026年2月 3日号(1/27発売)

台湾発言に手を緩めない習近平と静観のトランプ。激動の東アジアを生き抜く日本の戦略とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 2
    中国で大規模な金鉱脈の発見が相次ぐ...埋蔵量は世界でも過去最大規模
  • 3
    町長を「バズーカで攻撃」フィリピンで暗殺未遂、大胆な犯行の一部始終を捉えた「衝撃映像」が話題に
  • 4
    スペースXの宇宙飛行士の帰還が健康問題で前倒しに..…
  • 5
    一人っ子政策後も止まらない人口減少...中国少子化は…
  • 6
    パキスタン戦闘機「JF17」に輸出交渉が相次ぐ? 200…
  • 7
    人民解放軍を弱体化させてでも...習近平が軍幹部を立…
  • 8
    秋田県は生徒の学力が全国トップクラスなのに、1キロ…
  • 9
    またTACOった...トランプのグリーンランド武力併合案…
  • 10
    セーターが消えた冬 ── 暖かさの主戦場が「インナー」…
  • 1
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 2
    セーターが消えた冬 ── 暖かさの主戦場が「インナー」と「フリース」に移った日
  • 3
    海上自衛隊が水中無人機(UUV)を導入 中国の海軍拡張に新たな対抗手段
  • 4
    防衛省が「新SSM」の映像を公開、ノルウェー・コング…
  • 5
    データが示す、中国の「絶望的な」人口動態...現実味…
  • 6
    ラブロフ、グリーンランドは‌デンマーク​の「自然な…
  • 7
    中国で大規模な金鉱脈の発見が相次ぐ...埋蔵量は世界…
  • 8
    【銘柄】「古河機械金属」の株価が上昇中...中国のレ…
  • 9
    一人っ子政策後も止まらない人口減少...中国少子化は…
  • 10
    スペースXの宇宙飛行士の帰還が健康問題で前倒しに..…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?【2025年の話題クイズ5選】
  • 2
    中国製防空レーダーは米軍のベネズエラ攻撃に屈した──台湾高官が分析
  • 3
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 4
    セーターが消えた冬 ── 暖かさの主戦場が「インナー」…
  • 5
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?【202…
  • 6
    「腸が弱ると全身が乱れる」...消化器専門医がすすめ…
  • 7
    海上自衛隊が水中無人機(UUV)を導入 中国の海軍拡…
  • 8
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」は…
  • 9
    前進するロシア、忍び寄る限界...勝者に見えるプーチ…
  • 10
    防衛省が「新SSM」の映像を公開、ノルウェー・コング…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story