コラム

パレスチナ映画『ガザの美容室』にイスラエルが出てこない理由

2018年06月23日(土)11時27分

政治の破綻によってアイデンティティーの模索が始まる

このコラムで、レバノンのベイルートにあるパレスチナ難民キャンプ「シャティーラ」に住むパレスチナ難民の30代の造形芸術家アブドルラフマン・カタナーニを取り上げたことがある(北斎のような「波」が、政治的暴力を世界に告発する)

一時は政治的な風刺で日本でも展示会が開かれるほど有名になったが、解放闘争の旗を掲げるばかりで無力なパレスチナ政治勢力を鋭く風刺する作品に対して、政治勢力から圧力や脅しがかかり、風刺画をやめた。

その後、有刺鉄線を使って大波や竜巻を造形したり、ブリキ板を切って、遊ぶ子供たちを造形したりする作品を発表し、アラブ世界だけでなく、欧州でも注目されている。

カタナーニの有刺鉄線は、この70年間パレスチナ人を縛り、排除してきた「政治的な暴力」を象徴し、ブリキ板は今も続く難民生活を象徴する。彼が造形するブリキ板の子供たちは、有刺鉄線のひもで縄跳びをし、凧揚げをしている。有刺鉄線に縛られているのは、パレスチナ人だけでなく、世界中にいる。私たち日本人もまた見えない有刺鉄線に絡められているだろう。

かつて解放闘争を担う存在だったパレスチナ人芸術家は、政治の破綻によって、パレスチナ人としての新たな、かつより普遍的なアイデンティティーの模索を始めていることが、カタナーニの仕事から見えてくる。

イスラエルの封鎖と度重なる攻撃のもとにあるガザで、美容室を舞台とした女性たちの密室劇が映画として生まれてくるのも、政治の混迷を超えて、パレスチナ人を捉えなおそうとする模索であろう。

監督のナサール兄弟は、この映画について「老いること、男女関係、愛、家族、つまりは人生というリアルな問いかけをしている」と語る。ガザを舞台として、特殊な政治状況を描くのではなく、普遍的な人間状況を描くという思いであろう。

この映画から「パレスチナ問題のいま」ではなく「パレスチナ人のいま」に、さらに「閉塞状況に生きる人間のいま」に目を向けるならば、同じく閉塞状況を生きている日本人にとっても見えてくるものは多いはずだ。

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プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

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