コラム

反コロナ・デモに揺れるベルリンで、ハンナ・アーレント展が示すもの

2020年09月04日(金)16時30分

悪の凡庸さ

アーレントが生み出した有名なフレーズである「悪の凡庸さ」は、アイヒマンが繰り返し述べた、上司への「無条件の服従」が招いた無関心と無責任がなぜ起きたのかをめぐる真実の追求だった。アーレントは、ナチス(国民社会主義)が、すべての道徳的価値観の崩壊だけでなく、人間の判断能力の崩壊までを引き起こしたことを世界に示した。

ベルリンの展覧会は、来場者の心を動かし、人々に根拠のある自身の意見を持つことの重要さを促していた。フェイク・ニュースやソーシャルメディアによって生み出された大規模なヒステリーの時代にこそ、ハンナ・アーレントの歩みを振り返ることは貴重な解毒剤となる。

アーレントは、アイヒマンが上司の指示に従っただけだと発言し続けたことに触れ、「人は誰でも服従する権利をもたない」と指摘した。上司の命令によってユダヤ人をガス室に送り込んだと主張しても、それに「従う権利」などはなく、アイヒマンが上司に責任を転嫁していることをアーレントは見抜いていた。同時にアーレントは、「悪の凡庸さ」に触れ、悪は突出した存在だけでなく、普通の人々に、平凡に宿ることを示したのである。

takemura0904c.jpg

展覧会場で透明な布にプリントされたハンナ・アーレントの肖像


takemura0904d.jpg

ベルリンのドイツ歴史博物館。中国系アメリカ人建築家イオ・ミン・ペイの設計

デモを覆いつくすフィクション

ベルリンの反コロナ・デモには多彩なフィクションが導入されていた。次世代の5G通信が、コロナウィルスの原因であると主張する者、ビル・ゲイツは、コロナを介して世界中で予防接種プログラムを実施するために政府を買収し、そこから彼は財政的な利益を得ていると叫ぶ者、ワクチン接種は国民を飼いならす危険な生物兵器だと主張する者、反政府行動を利用して、ポピュリズムを増幅する極右政治勢力などさまざまである。

こうした扇動者の影響もさることながら、多数の一般市民がデモに参加した本当の理由は、陰謀論でも自由の抑圧でもなく、「真実の探求」だった。その背景には、政治的な多様な運動体が主張する多彩なフィクションの中で、コロナだけでなく、時代の真実が見えなくなっていることがある。本来真実を追求するはずのメディアが、コロナ危機を煽る報道に明け暮れたことへの失望でもあった。

脱真実とフィクション

イスラエルの作家であるユヴァル・ノア・ハラリは、人類だけが虚構の物語を発明し、それらを広め、そして何百万人もの人々にそれらを信じるように説得できるとし、良くも悪くも、フィクションは、人類のツールキットの中で最も効果的なものの一つであると指摘した。事実、ベルリンのデモを見ても、人々を団結させるには、真実よりも虚構の物語が有利なのかもしれない。人類は「脱真実」から進化したからである。

プロフィール

武邑光裕

メディア美学者、「武邑塾」塾長。Center for the Study of Digital Lifeフェロー。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学、東京大学大学院、札幌市立大学で教授職を歴任。インターネットの黎明期から現代のソーシャルメディア、AIにいたるまで、デジタル社会環境を研究。2013年より武邑塾を主宰。著書『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普及財団テレコム社会科学賞を受賞。このほか『さよならインターネット GDPRはネットとデータをどう変えるのか』(ダイヤモンド社)、『ベルリン・都市・未来』(太田出版)などがある。新著は『プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明』(黒鳥社)。現在ベルリン在住。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

丸紅、26年3月期は1.4%の増益予想 非資源がけ

ワールド

トルコ、メーデーのデモ参加者数百人拘束 

ビジネス

マイクロソフト、マスク氏のAIモデル「グロック」導

ワールド

トランプ政権、民主党主導4州提訴 気候変動関連法の
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    ウクライナ戦争は終わらない──ロシアを動かす「100年…
  • 5
    日々、「幸せを実感する」生活は、実はこんなに簡単…
  • 6
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 7
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 8
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 9
    インドとパキスタンの戦力比と核使用の危険度
  • 10
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 8
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story