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偽物の効用──「震災遺構」保存問題の周辺から

2017年9月12日(火)16時43分
渡辺 裕(東京大学大学院人文社会系研究科教授)※アステイオン86より転載

宮城県本吉郡南三陸町の防災対策庁舎(2011年9月撮影) Toru Hanai-REUTERS

<東日本大震災の被災地で、「震災遺構」を保存するか解体するかが議論になっている。何とも難しい問題ではあるが、ここには「本物信仰」という固定観念が関わっているのではないか。仙台市若林区の被災地を見学して、ひとつ印象に残ったのは「偽物」のバス停だった>

 先日ある研究会で、東日本大震災の被災地を見学する機会があった。「震災遺構」について考えるというのがその回のテーマであり、その保存が問題になっている場所を実際にいくつか訪問し、そのあと、仙台で行われた地元の方々のこのテーマでのディスカッションに立ち会わせてもらった。

 何とも難しい問題には違いない。防災無線で住民に最後まで避難を呼びかけ続けて殉職した女性職員の美談で知られる、あの南三陸町の防災対策庁舎にも行ったが、震災の記憶を残すために保存したいという人々と、そこで家族を亡くし、見るのがつらいので早くとりこわしてほしいという人々がおり、なかなか折りあわないようだ。どちらももっともな意見だし、犠牲者を悼む気持ちも、こういうことが二度と起きないことを望む気持ちも変わりがないはずなのに、「保存」の話が出たばかりに対立や分断が生み出されているとしたら、実に不幸なことである。

 もちろんこういう問題に唯一の「正解」などあるはずがないし、まして私などが横から口を出せる立場ではないのだが、ひとつ気になるのは「震災遺構」という言葉である。この言葉、今では当たり前のように使われるが、それはごく最近の話だ。阪神・淡路大震災の時も、震源となった野島断層の保存などの話ははやくから出ていたし、今なら「震災遺構」と呼ぶような話は他にもいろいろあったが、そういう言葉は使われていなかった。

 この言葉については、社会学者の小川伸彦氏が新聞記事を分析した「言葉としての『震災遺構』」という論文を書いているが(『奈良女子大学文学部研究教育年報』第一二号、二〇一五)、それによると、この語が使われるようになるのはおおむね、震災発生から一年以上たった二〇一二年の五〜六月あたりからであり、さらにカギ括弧つきの特別な語という形でなく、ごく普通に使用されるようになるのは翌二〇一三年あたりのことらしい。

 小川氏の書いていることで特におもしろいのは、この種のものがそれまでどう呼ばれていたかという話だ。「保存」に関わるような話自体はいろいろ出ていたが、そのことを言うために、巨大津波の痕跡、モニュメント、貴重な教材、残骸、後世に語り継ぐ遺産等々、いろいろな言葉を取っ替え引っ替え使い、その内容を表現していたというのである。こういういろいろな言い方を通してそこに確保されていた多様性や内実の広がりが、「震災遺構」という語に収斂してゆく過程で失われてしまったのではないかと小川氏は問う。

 どんな概念でも、それが確立されることでポイントがくっきりとみえてくるようになる反面、そのことが逆に、そこに孕まれている多様な側面や個々の事例ごとの固有の事情をみえづらくしてしまったり、本来問うべき根源的な問題をあたかも自明なことであるかのようにスルーしてしまったり、というようなことが起こってくる。

【参考記事】写真特集:震災から6年、福島の日常に残された傷跡

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