コラム

新作『多崎つくる・・・』で村上春樹はどこへ向かおうとしているのか?

2013年05月09日(木)15時10分

 村上春樹氏の文学に関しては、昨年に「ノーベル文学賞を逃した」際に、私はこの欄で「村上文学のとりあえずの現在位置」を確認しています。それは、まず若き日には日本の左右の政治的立場への「コミットメント」を拒否し、この世界全体への違和感に正直になることから「デタッチメント」という生き方を表現。それは究極の個人主義、あるいは個という視点から見た小宇宙のような世界だった、という認識から始まります。

 その後の同氏のスタイルは少しずつ変化しています。まず、オウム事件の被害者への共感から「正義へのコミットメント」という立場へ移動しながら、一方では「大衆社会の相互監視」的なもの(「リトル・ピープル」など)との対決といった「新たなデタッチメント」を経験したり、その一方で『1Q84』に顕著な「性的な刺激、老いの悲しみ」といった「身体性へのコミットメント」に傾いたり、揺れと過渡期の中にあるように思われる、昨年の時点ではそのような指摘ができたと思います。

 こうした観点から、今回発表された新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読むと、村上文学は、ここで相当に立ち位置を変えて来ていることが分かります。

 というのは、まず物語の主人公であり、全体のストーリーの視点と語り手を兼ねる「多崎つくる」が、事実上の一人称でありながら、過去の村上作品の主人公とは決定的に異なる位置を与えられているからです。

 多くの村上作品では主人公は「僕」という一人称として設定され、「世界との距離感を大切にする観察者」という役割を与えられていました。例えば、友人や恋人の自殺という経験も、それが直接「傷」となったという認識ではなく、「不可解で暴力的な経験」という受け止めがされ、その結果として「僕」はより冷静に、より醒めた観察者として「世界」との距離を置くというのが通例でした。

 例えば『ねじまき鳥クロニクル』では、戦争という暴力が描かれますが、これも冷静な距離感での観察がされるということには変わりませんでしたし、『1Q84』では珍しく「天吾と青豆」という三人称として主人公が設定されていますが、その背後にある「作者の視線」ということでは、暴力性のある新興宗教や、不気味な追跡者への「まなざし」は依然として距離感を保った冷静なものであったように思います。

 こうした主人公、あるいは作者の「冷静さ」とか「世界との距離感」というのは、ある種の「強さ」と言ってもいいですし、「強さ故の孤立」であるとか、「自分の魂は売り渡さないという美学」であるとも言えます。

 最近の講演で、村上春樹氏は「川端康成への違和感」を口にしていますが、川端作品の芸風というのは「自分の弱さを徹底して見つめ」て、そこから(悪く言えば)「開き直る」ところから微光のような救済の瞬間を演出するスタイルであり、村上文学の美学とは相容れないのはよく分かります。

 ですが、本作の「多崎つくる」はこれまでの村上文学とは決定的に違うのです。

 村上春樹氏は、ここで形式的には三人称、実質的には一人称の主人公に「傷」を負わせています。しかも大変に深い傷であり、自殺を意識したという記述まで加えています。これは過去の村上作品にはなかったことです。

 では、どうして主人公「多崎つくる」は「傷」を負わされたのでしょうか? それは「つながる」ためです。この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のテーマは、一見すると「関係性の修復」であり、主人公にフォーカスするならば「傷からの快癒」のように見えます。ですが、それはあくまで表層のストーリーであり、その奥には「傷を負った者同士」だからこそ「つながる」ことができるという関係性の再定義があるように思います。

 ここに至って、村上文学は「世界からのデタッチメント」でもなく、「被害者の正義へのコミットメント」でもなく、「自らの傷と向き合う」中で、「傷を背負った者同士」が「個と個の関係性というコミットメント」が可能だという場所へと進んで行ったのだと思います。これまでの村上文学とは決定的に違うというのはそうした意味です。

 小説以外にもメッセージ発信の機会が増えている村上春樹氏ですが、話題になった「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」という2009年の「壁と卵」スピーチでは、「暴力性へのデタッチメント」と「被害者の正義へのコミットメント」という従来の立ち位置とは変わらないものが感じられました。

 ですが、先月のボストン・マラソンにおける爆弾テロ事件を受けて「ニューヨーカー」誌に寄稿した『ボストン、ランナーであると自認する一人の世界市民として』というエッセイでは、「過去に6回出場」したボストン・マラソンを深く愛する者として「自分もまた傷ついた」という表現を使っています。この観点は「壁と卵」の思想とは違っており、「多崎つくる」の位置と共通するように思われます。ここにも「自らの傷と向き合うことでつながってゆく」という思想が感じられるからです。

 では、この村上文学の「新境地」をどう評価したら良いのでしょうか?

 1つは、これは敗北だという評価が可能です。混乱が続く21世紀の世界では、「冷静な傍観者」というのは「貴族的な精神の特権階級」だという暗黙の攻撃を受ける中で、自身が「孤立を貫くことが果たして善であるか」という自問自答の中から「後退」に至ったという見方ができます。更には「自尊感情のレベルが総崩れになっている日本の特殊性に引きずりこまれた」という批判も可能でしょう。

 一方で、そうではなくて成熟であるという積極的な評価も可能です。「傷を負ったものの連帯」と言っても、それは被害者意識による団結であるとか、将来的には攻撃性へと転化してダークサイドに行くような危険なものではなく、もっとスピリチュアルなものという見方です。使徒マタイの言う「心貧しき者は幸いなるかな」とか、親鸞の思想にある「悪人正機」などにも通じる境地とでも言いましょうか。また、この「傷を負った者の連帯」という思想こそ21世紀には世界的な普遍性があるという見方もできます。

 あるいは、もっと自然なものかもしれません。東日本大震災における被災者との連帯、あるいは今回の「多崎つくる」とその友人たちといった「団塊二世」以降の世代が直面している世界的な社会苦への密やかな連帯といったものから、肩の力が抜けるように「冷静な傍観者」という位置からスッと歩み出たということなのかもしれません。

 いずれにしても、本作で村上文学は新しい境地へと踏み出しました。その真価は次作以降で問われることになるのだと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

中国人民銀、一部銀行の債券投資調査 利益やリスクに

ワールド

香港大規模火災、死者159人・不明31人 修繕住宅

ビジネス

ECB、イタリアに金準備巡る予算修正案の再考を要請

ビジネス

トルコCPI、11月は前年比+31.07% 予想下
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇気」
  • 2
    日本酒の蔵元として初の快挙...スコッチの改革に寄与し、名誉ある「キーパー」に任命された日本人
  • 3
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させられる「イスラエルの良心」と「世界で最も倫理的な軍隊」への憂い
  • 4
    【クイズ】日本で2番目に「ホタテの漁獲量」が多い県…
  • 5
    台湾に最も近い在日米軍嘉手納基地で滑走路の迅速復…
  • 6
    【クイズ】17年連続でトップ...世界で1番「平和な国…
  • 7
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙す…
  • 8
    トランプ王国テネシーに異変!? 下院補選で共和党が…
  • 9
    トランプ支持率がさらに低迷、保守地盤でも民主党が…
  • 10
    コンセントが足りない!...パナソニックが「四隅配置…
  • 1
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 2
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体を東大教授が解明? 「人類が見るのは初めて」
  • 3
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 4
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファ…
  • 5
    128人死亡、200人以上行方不明...香港最悪の火災現場…
  • 6
    【寝耳に水】ヘンリー王子&メーガン妃が「大焦り」…
  • 7
    【クイズ】次のうち、マウスウォッシュと同じ効果の…
  • 8
    【クイズ】世界遺産が「最も多い国」はどこ?
  • 9
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 10
    子どもより高齢者を優遇する政府...世代間格差は5倍…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 4
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 5
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 6
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 7
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 8
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」は…
  • 9
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story