コラム

「ホロコーストはなかった」とする否定論者との闘い 『否定と肯定』

2017年12月07日(木)18時50分

ユダヤ人の女性歴史学者とホロコースト否定論者が2000年ロンドン法廷で対決した実話 映画『否定と肯定』

<ユダヤ人の女性歴史学者とホロコースト否定論者が2000年ロンドン法廷で対決した実話。真実を守ることがますます難しくなってきている現在について考えるヒントも与えてくれる>

ミック・ジャクソン監督『否定と肯定』の物語は、ホロコーストの真実を探求するユダヤ人の女性歴史学者デボラ・E・リップシュタットと、イギリスの歴史作家で、ホロコーストはなかったとする否定論者のデイヴィッド・アーヴィングが、法廷で対決した実話に基づいている。

この裁判の発端になったのは、リップシュタットが93年に発表した『ホロコーストの真実――大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』だ。ホロコースト否定論者たちが歴史を歪曲する手口やその動機を掘り下げた本書には、アーヴィングも取り上げられていた。これに対してアーヴィングはリップシュタットと出版社を名誉毀損で訴え、数年の準備期間を経て2000年にイギリスの王立裁判所で裁判が始まった。

否定論者とどのように向き合うべきか

この映画は1994年、大学で教鞭をとるリップシュタットが暮らすアメリカのアトランタから始まり、裁判に至る過程にもテーマに深く関わるエピソードが盛り込まれている。物語は、前年に『ホロコーストの真実』を出版したリップシュタットが、講演を行う場面から始まる。そこには彼女の複雑な立場が巧みに描き出されている。講演の参加者のひとりが、彼女が否定論者とは討論しないことについて、話すことが民主主義であり、拒むのは臆病なのではないかという疑問を投げかける。

リップシュタットは『ホロコーストの真実』のなかで、否定論者とは論争しない理由を最初から明確にしている。ホロコーストの有無は論争の対象にはなり得ないのに、討論に応じれば、対立する二つの主張があり、否定論者がその一方の立場であるように認知されてしまう。だからこの本を書くことにも葛藤があった。以前は否定論者を無視する姿勢を熱烈に支持していた彼女は、「彼らの存在誇示に手を貸しているのではないかという思いに苦しんだ」とも書いている。

しかし、この講演の場面は、参加者から疑問を投げかけられるだけでは終わらない。アーヴィング本人が講演に紛れ込み、壇上の彼女を攻撃し、協力者にその一部始終を撮影させ、自身のサイトで勝利を宣言する。

この映画は、そんな導入部から、真実を守ろうとする者は、否定論者のような存在とどのように向き合うべきなのかという難しい課題を突きつけてくる。

無視はしないが討論もしないという立場だったが

リップシュタットが裁判のために雇った弁護士によれば、アーヴィングがイギリスで訴えを起こしたのには狙いがあるという。イギリスでは、アメリカとは違い、原告ではなく被告に立証責任があるのだ。さらに、ロンドンを訪れ、ユダヤ人団体の指導者たちと会食したリップシュタットは、彼らから示談を勧められる。アーヴィングは過去の人であり、裁判を行えば息を吹き返すというのが彼らの言い分だ。裁判にはそんな危険もともなう。

アーヴィングは否定論者として脚光を浴びる機会を虎視眈々と狙っていた。これに対して、無視はしないが討論もしないという立場をとるリップシュタットは、法廷での対決など想定もしてなかったことだろう。この映画は、単に裁判の顛末を描き出すだけでなく、そんな彼女の心理も掘り下げていく。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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