最新記事
自叙伝

イスラム教の問題作『悪魔の詩』の作家が自叙伝を発表「自由という理想の火を消してはいけない」

SALMAN RUSHDIE’S NEXT ACT

2024年8月29日(木)14時50分
サリル・トリパティ(ジャーナリスト、作家)

『ナイフ』には、著者が自身を襲った男と想像上の対話をする箇所がある。そこで男は、ラシュディにこう告げている。「おまえは世界中で20億の民に憎まれている......おまえは虫けらで、俺たちに踏みつぶされる運命だ」

ラシュディにとって不本意だったのは、『悪魔の詩』を最初に発禁処分にしたのが自身の生まれたインドだったこと、そして22年に襲撃された事件について、ヒンドゥー至上主義のインド政府がこれといった発言をしなかったことだ。もちろんラシュディも、インドのナレンドラ・モディ首相の政治を評価する発言は一切行っていないのだが。


ラシュディは2000年に渡米した。「生命、自由、幸福の追求」を望んだからだ。ニューヨークに来た当初は苦労したものの、その後は成功した。ラシュディに近づくのを尻込みする人もいたが、ためらいを断ち切る唯一の方法があるとすれば、自分が何も恐れていないかのように振る舞うことだとラシュディは考えた。

怖がる必要は何もないと相手に示すためだった。やがてラシュディはギャラリーやパーティーに、レストランや公園にも姿を見せるようになった。そして自由のために声を上げ続けた。

老いても、刺されても

その後、ラシュディは妻の愛情を通じて幸福を見つけ出した。だが幸福について書くのはたやすいことではない。ラシュディは仏作家アンリ・ド・モンテルランの言葉を引用している。

「幸福とは、白いページに白いインクで書かれるものだ」

ラシュディは新著『ナイフ』で、家族や親しい友人たちからの特別な愛情や、医療従事者による手厚い治療のおかげで手にした「時間」という贈り物をどう使えばいいのかと自問している。

彼としては自分本来の姿、つまり書斎に籠もって物語を紡ぎ出す作家であり続けたいと思っている。以前は、あの事件のことは書きたくなかった。しかし、気が変わった。なぜか。

「書けば、あの日の出来事を自分のものにできるからだ。単なる犠牲者であることを拒むことができる。暴力には小説で応える。それが私の流儀だ」

憎しみよりも愛、偽りよりも真実、妄信よりも疑念、従順よりも反抗、雑音よりも芸術。彼のそういう信念は決して揺るがない。

三人称で書かれた自叙伝『ジョセフ・アントン』は、あのファトワを宣告された自分から一歩離れて、他者の目で己を見つめるような作風だった。しかし今度の『ナイフ』は堂々と一人称で通した。

ラシュディはマンガ通でもある。初めてソーシャルメディアに参加したときは、偉大な「ポパイ」に敬意を表して “I yam what I yam”(おいらはおいら)と書き込んでいる。そう、ラシュディはラシュディ。老いても、刺されても。

Foreign Policy logo From Foreign Policy Magazine

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米雇用4月17.7万人増、失業率横ばい4.2% 労

ワールド

カナダ首相、トランプ氏と6日に初対面 「困難だが建

ビジネス

デギンドスECB副総裁、利下げ継続に楽観的

ワールド

OPECプラス8カ国が3日会合、前倒しで開催 6月
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得る? JAXA宇宙研・藤本正樹所長にとことん聞いてみた
  • 2
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 3
    インドとパキスタンの戦力比と核使用の危険度
  • 4
    日々、「幸せを実感する」生活は、実はこんなに簡単…
  • 5
    目を「飛ばす特技」でギネス世界記録に...ウルグアイ…
  • 6
    宇宙からしか見えない日食、NASAの観測衛星が撮影に…
  • 7
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 8
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が…
  • 9
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 10
    金を爆買いする中国のアメリカ離れ
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 5
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 8
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が…
  • 9
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中