最新記事
自叙伝

イスラム教の問題作『悪魔の詩』の作家が自叙伝を発表「自由という理想の火を消してはいけない」

SALMAN RUSHDIE’S NEXT ACT

2024年8月29日(木)14時50分
サリル・トリパティ(ジャーナリスト、作家)

newsweekjp_20240828040143.jpg

イランで行われたデモで「ラシュディに死を」と叫ぶ少女ら(1989年) KAVEH KAZEMI/GETTY IMAGES

あのファトワ以来、ずっと彼の命は狙われていた。『悪魔の詩』を日本語に訳したイスラム学者の五十嵐一は何者かに殺された。やはり『悪魔の詩』をイタリア語に訳したエットレ・カプリオーロも刺された(死は免れた)。『悪魔の詩』をノルウェーで出版したウィリアム・ニゴールも銃で撃たれた。

その一報を聞いたラシュディが電話をかけたとき、ニゴールはこう言った。「君が謝ることはない。私も大人だ。私は『悪魔の詩』を出版したいと思ったし、出してよかったと思っている。本当だよ、たった今、大増刷を決めたところだ」


新著『ナイフ』で、ラシュディは2年前の襲撃後に耐えなければならなかった苦痛と苦悩の日々を詳細につづっている。この本で最高に輝いているのは彼の妻レイチェル・イライザ・グリフィスだ。彼女の勇気、確信、支援、そして愛がラシュディの回復を助けた。

ラシュディは暴力に屈せず戦う意志の力を示し、勇気こそが勝利につながることを示した。肉体は傷ついても、彼の才能(言葉の連想、神話や文学作品や歴史から物語を紡ぎ出す驚異的な記憶力、そして遊び心)は少しも衰えていない。

今回の自叙伝で、ラシュディは22年の夏に襲撃の予兆を感じたと書いている。命を狙われる数日前の夜、彼は槍(やり)を持った男が襲ってくる夢を見た。それでも悪い夢が現実になるはずはないと、ラシュディは自分に言い聞かせた。しかし、あの日、彼は自分に向かって突進してくる逆上した男の姿を見た。

「おまえか。ついに来たか」。そう思ったとラシュディは書いている。「だが、なぜ今なんだ? 遅いじゃないか、なぜ今なんだ?」

なぜ今、という疑問は本心から出ていた。ラシュディはインドで最も国際的な都市ボンベイ(現ムンバイ)に生まれ、その後、多言語都市のロンドンに移り住んだ。

だがファトワが彼の自由を奪い、彼の著作に対する無慈悲で粗野な批判が続くなか、世紀の変わり目に彼はロンドンを離れ、誰にも束縛されない国際都市ニューヨークへ移った。ラシュディはやり直したかった。あのファトワの影から逃れたかった。『悪魔の詩』一冊だけの作家のように思われるのは耐えられなかった。

独立後のインド、それもボンベイで生まれ育った私たちにとって、ラシュディが1981年に発表した小説『真夜中の子供たち』は衝撃だった。あれを読んで、ああ英語は自分たちの言語なんだと感じた。外国語じゃない、英語は自分たちの言語なのだと。

筆者は1983年に、初めてラシュディに会った。『真夜中の子供たち』でブッカー賞を受賞した彼がインドに凱旋したときのことだ。ところがインドは他国に先駆けて、1988年に『悪魔の詩』の輸入を禁止した。事実上の発禁処分。なぜだ、と私たちは思った。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

伊プラダ第1四半期売上高は予想超え、ミュウミュウ部

ワールド

ロシア、貿易戦争想定の経済予測を初公表 25年成長

ビジネス

テスラ取締役会がマスクCEOの後継者探し着手、現状

ワールド

米下院特別委、ロ軍への中国人兵参加問題で国務省に説
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 2
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 6
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 7
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 8
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 9
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 10
    中居正広事件は「ポジティブ」な空気が生んだ...誰も…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 7
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 10
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 9
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 10
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中