コラム

バグダードのテロ再び──テロ犠牲者の遺恨を体現した「フランケンシュタイン」は再来するか?

2021年02月02日(火)14時45分

それだけではない。バッターウィーン地区は、1940年代初めまではユダヤ人の居住地域だった。イラクは、アラブ諸国のなかではイエメンやモロッコとともに、多くのユダヤ教徒が住む国だった。バグダードのユダヤ人一族のなかには、ヴィダル・サスーンで有名なサスーン財閥がおり、19世紀にはインド、中国などに拠点を築いた。神戸で今は結婚式場となっている旧サッスーン邸は、20世紀半ばに貿易商、不動産家として日本で活躍したディヴィッド・サスーンの邸宅である。

だが、イスラエルの建国が決まると、イラクのユダヤ人たちの運命は激変した。早々とイスラエルへの移住を決めた者もいれば、イスラエル建国に反対するアラブ・ナショナリズムの煽りを受けて、追い出されるように離国した者もいる。1941年に起きたファルフードと呼ばれるユダヤ人迫害事件は、イラク在住ユダヤ人のほとんどをイスラエルに追いやる結果となったといわれる。こうしたイラク出身ユダヤ人のイスラエルでのその後を追ったドキュメンタリー映画の秀作に、「忘却のバグダッド」がある。2005年の国際交流基金主催の「アラブ映画祭」で邦訳化され公開されたのは、主催者の慧眼だった。

ユダヤ人がいなくなったあとを埋めたのが、南部のシーア派住民である。1950~60年代は都市化が進んだ時代で、南部農村から多くのシーア派住民がバグダードを目指して移住してきたが、貧困層は都市部周辺にスラムを形成し、そこそこ資産のあるものたちはバッターウィーンで商売を起こした。バアス党政権を含め、歴代政権では政治がスンナ派のエリートによって担われてきたが、シーア派は商業で力を発揮した。

戦後混乱期の対イラク政策を熟知するバイデン

このような背景を持つタイヤラーン広場とその周辺のバッターウィーンだからこそ、ISやアルカーイダなどの攻撃対象になる。こうした勢力は、イラクに社会的混乱をもたらし、恐怖と無秩序のなかで支持者と活動基盤を確立していくが、そのために市民の経済活動の場を奪い、宗派的対立、社会不安を煽る。タイヤラーン広場近くには、アルメニア教会やアッシリア教会など東方キリスト教系の教会も多く、キリスト教徒住民も少なくない。ISの恰好の攻撃対象だ。

バッターウィーン地区は、2003年以降数々のテロ攻撃や内戦状況を受けて、かつての「新橋・有楽町」的繁栄を失ってはいるが、中流から中の下クラスの庶民の買い物の場であり、公共交通機関が行き来する場であり、若者が仕事を求めて集まる場である。2019年秋から継続しているタハリール広場を拠点とした反政府・市民運動は、「政府にNo」を突き付けることでこの地域にイラク人としての一体感を生み出した。

そんな庶民街のしぶとく生き延びようとする試みが、今、両サイドから危機に晒されているのだ。1つはデモ隊への弾圧を続ける親イラン系の与党民兵勢力であり、もう1つがISやアルカーイダ系の国際的暴力組織である。これらの揺さぶりに耐え切れずイラクが再び宗派抗争の波に覆われることのないように、国際社会は注視する必要があるが、バイデン大統領の就任演説やその中東政策には、イラクはまったくといっていいほど、現れてこない。

バイデン自身、オバマ政権時代はむろんのこと、ブッシュ政権下でも上院の外交委員長を務めていたので、戦後の混乱期の対イラク政策は熟知している。また、初めての黒人の国防長官に選ばれたオースティンもイラク戦争時司令官として前線に立った人物で、その後も中央司令官としてIS掃討作戦を指揮してきた。

だが、果たして経験十分なので大丈夫、と言えるかどうか。「イラクはシーア派とスンナ派とクルドの三つに分けてしまえばよい」と15年前に言ったバイデンの言葉が、現実のものならなければよいが、という一抹の不安を払拭できない。

ニューズウィーク日本版 日本時代劇の挑戦
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2025年12月9日号(12月2日発売)は「日本時代劇の挑戦」特集。『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』 ……世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』/岡田准一 ロングインタビュー

※バックナンバーが読み放題となる定期購読はこちら


プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

小泉防衛相、中国軍のレーダー照射を説明 豪国防相「

ワールド

米安保戦略、ロシアを「直接的な脅威」とせず クレム

ワールド

中国海軍、日本の主張は「事実と矛盾」 レーダー照射

ワールド

豪国防相と東シナ海や南シナ海について深刻な懸念共有
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 2
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 3
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」が追いつかなくなっている状態とは?
  • 4
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 5
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 6
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 7
    『ブレイキング・バッド』のスピンオフ映画『エルカ…
  • 8
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 9
    仕事が捗る「充電の選び方」──Anker Primeの充電器、…
  • 10
    ビジネスの成功だけでなく、他者への支援を...パート…
  • 1
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 2
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 3
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺るがす「ブラックウィドウ」とは?
  • 4
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 5
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%…
  • 6
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 7
    【クイズ】アルコール依存症の人の割合が「最も高い…
  • 8
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 9
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 10
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 10
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story