コラム

ローマ教皇のイラク訪問は何を意味するのか?

2021年03月11日(木)17時00分

シーア派最高権威のスィスターニーと会談したローマ教皇(今月6日) REUTERS

<教皇の目的は、イラクで見捨てられがちなキリスト教コミュニティーを見舞うだけではない>

3月5〜8日に行われたローマ教皇フランシスコのイラク訪問は、世界中で驚嘆と歓喜、賞賛をもって受け止められた。2年前までIS(「イスラーム国」)によるテロ活動が蔓延し、ちょうど1年前には米軍がイラクおよびイランの治安組織関係者をバグダード空港近くで爆殺するという事件もあり、決して治安が安定したとはいいがたいイラクである。

ましてや、このコロナ禍。イラクでは、1月上旬には新規感染者数を600人台まで抑え込んでいたのに、2月に入った途端に1000人を超え、3月初めには5000人を超えるという、第2波のピークを迎えている。死者数の多さでは、現在世界29位だ。

教皇が訪問したのは、その最中である。84歳という高齢の教皇は、すでに1月中にワクチンを接種した上で、イラク各地を訪問するにあたってマスクを外し、人々と密に交わった。その覚悟たるや、並々ならぬものを感じる。

なぜこの時期にイラクに? もともと歴代の教皇は、一神教の始祖であり神に救済された最初の人間であるアブラハムの生地とされるイラク南部のウルを訪問したい、と切望していたと伝えられている。2000年には先々代のヨハネパウロ二世が、ウル訪問を企画したが、当時フセイン政権下のイラクは国連の経済制裁下にあり、実現しなかった。

それを是非にと推し進める最大の要因となったのは、2014年以降のISによる非イスラーム教徒に対する迫害である。とりわけ、北部山岳地域に居住するキリスト教徒やヤズィディ教徒が虐殺や奴隷化の対象となった。ISから解放されたこの地域を訪問し、現地のキリスト教社会を癒すことが最大の目的だったのである。

キリスト教徒への迫害

イラクには、現在キリスト教徒が数十万人居住している。イラクでのキリスト教会の成立は、古く紀元2世紀頃に遡ることができ、ローマ・カトリックとは異なる展開を遂げた、いわゆる東方教会に属する中東独自の教会だ。現在最も信徒人口が多いのがカルデア教会で、次いでアッシリア教会、シリア正教会、アルメニア教会、ギリシア正教会などがある。信徒数は全体で30万人とも50万人ともいわれるが、かつては100万から150万人という大きなコミュニティーを誇っていた。正式な人口統計として残っている70年以上前の記録によれば、1947年時点でイラク全人口の3.1%をキリスト教徒が占めたとされている。

今回教皇が訪問したモースルは、そのキリスト教徒たちが多く居住していたニネヴェ県の県庁所在地で、2014年6月にISが制圧した地域である。10万人以上のキリスト教徒が殺害やレイプを逃れて国内外に脱出、難民化した。4世紀に建設されたとされるシリア・カトリックの聖ベヘナム教会など、貴重な遺跡の多くが破壊された。教皇訪問に合わせて、モースルでは復興が突貫工事で進められたというが、完全回復にはほど遠く、難民となった人々の多くが、「とても戻れる状況ではない」と語る。

キリスト教徒たちが帰還に悲観的なのは、彼らが被害にあったのがISのせいだけではないからだ。2003年のイラク戦争以降、繰り返しイスラーム武装組織の襲撃の対象にあってきた。IS登場直後にイラク・ムスタンシリーヤ大学のサアド・サルーム教授が出版した編著「イラクのキリスト教徒」によれば、2003年から10年間、ISが登場する前でも861人のキリスト教徒が殺害され、教会など67の宗教施設が襲撃を受けたという。今回の教皇の訪問地の一つであるバグダードの「救いの聖母教会」は、2004年および2010年の2回にわたり攻撃対象となった教会で、2004年には10人、2010年には58人が殺害された。

これらはISの前身ともいえる「イラクのアルカーイダ」による攻撃だったが、それ以外の勢力からもさまざまな圧力を受けた。2003年以降、スンナ派であれシーア派であれ、政治のイスラーム化が進行したことから、非イスラーム教徒全般に居心地が悪くなっていたことは事実だろう。フセイン大統領は独裁体制を強いたが、決して権力奪取を狙わない少数派のキリスト教徒は側近にしても安全なので、外相職など要職に起用したり、使用人として重用していた。その分、前政権でいい思いをした人たち、と見なされて攻撃されるケースも少なくなかったのだ。

特に、クルディスタン地域に住むキリスト教徒は、クルド・ナショナリズムが優先されるなかで、しばしば微妙な立ち位置に置かれてきた。特にアッシリア教徒は、キリスト教徒であるという以上に、アッシリア人という民族的自覚が強いため、「クルド人の治世」に対して不協和音を起こしがちである。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

ECB当局者、6月利下げを明確に支持 その後の見解

ビジネス

米住宅ローン金利7%超え、昨年6月以来最大の上昇=

ビジネス

米ブラックストーン、1─3月期は1%増益 利益が予

ビジネス

インフレに忍耐強く対応、年末まで利下げない可能性=
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    「毛むくじゃら乳首ブラ」「縫った女性器パンツ」の衝撃...米女優の過激衣装に「冗談でもあり得ない」と怒りの声

  • 3

    止まらぬ金価格の史上最高値の裏側に「中国のドル離れ」外貨準備のうち、金が約4%を占める

  • 4

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 5

    「イスラエルに300発撃って戦果はほぼゼロ」をイラン…

  • 6

    中ロ「無限の協力関係」のウラで、中国の密かな侵略…

  • 7

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 8

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負け…

  • 9

    ヨルダン王女、イランの無人機5機を撃墜して人類への…

  • 10

    紅麴サプリ問題を「規制緩和」のせいにする大間違い.…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体は

  • 4

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 5

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 6

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 7

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 8

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 9

    帰宅した女性が目撃したのは、ヘビが「愛猫」の首を…

  • 10

    ハリー・ポッター原作者ローリング、「許すとは限ら…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story