コラム

ローマ教皇のイラク訪問は何を意味するのか?

2021年03月11日(木)17時00分

ところで、フランシスコ教皇のイラク訪問で注目すべき点は、見捨てられがちなキリスト教徒コミュニティーを見舞っただけではない。眼目のひとつは、ナジャフのシーア派宗教界最高権威、アリー・スィスターニーと面談したことである。

教皇が中東を訪問すること自体は、新しいことではない。聖地エルサレムを含むイスラエル、パレスチナ、ヨルダンといった聖書の舞台には、1964年に訪問している。だが、それ以降は21世紀に入るまで、中東への旅はほとんど行われていなかった。それを活発化したのはヨハネパウロ二世で、ミレニアムの機会にイスラエル/パレスチナとその周辺諸国に加えて、エジプト、モロッコ、チュニジア、スーダンを訪問した。

特に現教皇のフランシスコは、異なる宗教間の対話に熱心だ。彼は、2017年にエジプトを訪問した際、画期的なことに、スンナ派イスラームの最高学府であるアズハル学院で説教を行った。以来、アズハルの大イマームであるアフマド・タイイブとは密な交流を続けている。2019年には、両者ともにUAEのアブダビを訪問して、人道友愛文書に署名した。UAEは移民労働者の劣悪な労働環境がしばしば問題になるが、そこでフィリピン人などキリスト教徒の移民労働者に向けてミサが行われた。

その流れのなかでの今回のイラク訪問である。スンナ派のトップとはパイプができたのだから、次はシーア派宗教界だ、というわけか。

シーア派宗教界の中心たるハウザ(トップクラスの宗教学者による学問拠点)は、イランのコムとイラクのナジャフが二大拠点だが、ナジャフのアリー・スィスターニーは、最高権威(マルジャア)として戦後のイラクで絶大な社会的影響力を誇ってきた。政治には干渉しないことをモットーにしつつ、戦後や内戦期の無秩序を諫める宗教令を出したり、国家の長は住民たるイスラーム教徒によってえらばれなければならない、との宗教令で民選議会の設立を促したりと、イラク戦争後の政治を大きく左右してきた。なかでもその影響力が発揮されたのがISに対する祖国防衛の呼びかけで、それに応じて多くのシーア派信徒が、瓦解した国軍に変わって義勇兵として対IS掃討作戦に身を投じた。

聖都ナジャフの面目躍如

とはいえ、スィスターニーの鶴の一声ですべて政治が動くわけではない。最近の彼は、イラク政界の主流を占める親イラン派連合と距離を置いたり、反政府デモに対する政府の容赦ない弾圧を批判したりして、政権中枢にあるシーア派イスラーム政党との間には溝がある。信徒からは絶大な支持を受けながらその政治的威光には陰りがあるなかで、教皇の訪問を受けたことは、改めてスィスターニーの重要性を世界に知らしめることになったに違いない。同時に、親イラン派をうまく制御したい民間出身のカーズィミー首相としては、教皇訪問にスィスターニーを担ぎ出したことで、大いに株を上げることができたといえる。

さらにはイラクのシーア派宗教界にとっても、株の上がる出来事だったに違いない。「シーア派宗教界の代表といえばイランのコムではなく、イラクのナジャフだ!」と印象づけることができたからだ。2003年以降のイラクは、政治的にも経済的にもイランの影響力を抜きにしては成立しない。イラクのシーア派聖地もまた、イランからの巡礼客が落としていくカネで潤っている側面が強い。同じ聖地で隣の県にあるカルバラは、巡礼者向けの高級ホテルが立ち並んだり聖廟が豪華に建て直されたりと、見るからにゴージャスで活気がある。

だが、スィスターニーら宗教者たちが学ぶ学都たるナジャフは、清貧を地でいく質素さだ。イランのシーア派聖地に比べて、見劣りがする。だが、それこそが正しい宗教者としての在り方なのだ、というのがナジャフ式なのかもしれない。薄汚れた路地を教皇が歩き、なんの飾りもないそっけない客間でスィスターニーと対峙する姿は、イランに対抗する聖地ナジャフの面目躍如だったに違いない。

84歳のフランシスコ教皇と90歳のスィスターニーの対話で何かが変わるほど、政治は簡単ではない。教皇が来たからといって、難民化したイラクのキリスト教徒たちの生活が劇的に変わるわけではない。それでも、コロナ禍と暴力が吹き荒れるなかでも、宗教者として何かしなければと動く老齢の二人の姿は、強い印象を世界に残した。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ナジブ・マレーシア元首相、1MDB汚職事件で全25

ワールド

ゼレンスキー氏、トランプ氏と28日会談 領土など和

ワールド

ロシア高官、和平案巡り米側と接触 協議継続へ=大統

ワールド

前大統領に懲役10年求刑、非常戒厳後の捜査妨害など
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指すのは、真田広之とは「別の道」【独占インタビュー】
  • 4
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 5
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 6
    「衣装がしょぼすぎ...」ノーラン監督・最新作の予告…
  • 7
    赤ちゃんの「足の動き」に違和感を覚えた母親、動画…
  • 8
    中国、米艦攻撃ミサイル能力を強化 米本土と日本が…
  • 9
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 10
    「時代劇を頼む」と言われた...岡田准一が語る、侍た…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 4
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 5
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 6
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 7
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 8
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 9
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリ…
  • 10
    懲役10年も覚悟?「中国BL」の裏にある「検閲との戦…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 8
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story