コラム

ヴェネツィア・ビエンナーレとは何か(2):『資本論』とロールス・ロイス

2015年10月22日(木)16時00分

 ムニーズは2001年にブラジル代表としてヴェネツィア・ビエンナーレに出展し、現在では、いくつかあるアーティストランキングにおいて、常に上位に名を連ねる人気作家である。したがって作品の価格は高く、2014年には、高級シャンペンのペリエ・ジュエのために限定ボトルのデザインを行ってもいる。「移民船沈没記事ボートと高級シャンペン」も「『資本論』と高級自動車」も構図としては同一と言ってよい。だが、ジャーナリズムがムニーズとブランドとの関係を問い糾すことはなかった。同じ時期に同じヴェネツィアで、という心配りのなさ(鈍感さ?)ゆえにジュリアンひとりが悪者にされたのかもしれないが、ロールス・ロイスは悪質だがペリエ・ジュエならよい、というロジックは本来、成り立たないだろう。エンヴェゾーへの批判も、出るには出たが歯切れの良いものではなかった。なぜジャーナリズムの追及は甘いのか。

 それは、いかなるアーティストも、グローバル資本主義と癒着したアートワールドに棲みついている、いわば同じ穴のムジナであり、そのことをジャーナリストたちが知っているからだ。高級ブランドに支援されるフェア、フェスティバル、展覧会は枚挙にいとまがなく、彼らと「コラボレーション」するアーティストも、ジュリアンやムニーズ以外に多数存在する。アーティストだけではない。ディレクターのエンヴェゾーも、ビエンナーレ財団の理事たちも、オープニングプレビューに集合した各国のアート関係者もみんなそうだ。さらに言えば、記事を書く当のジャーナリストたちも、多かれ少なかれ「共犯者」である。様々なアートイベントで、ペリエ・ジュエを含むシャンペンを何度も頂戴した筆者も、ごく小さなムジナの1匹である。アートワールドに暮らす者は、揺るぎないシステムから逃れられない。現代アートは、システムから独立して存在することはできない。

『紅白歌合戦』としてのアート・バーゼル

 だが、それは本当だろうか。システムに依存しないアートは絶対に不可能なのか? その問いの答はあらためて考えてみるとして、前回、アートワールドの構造を垣間見るためには、アート・バーゼルのようなアートフェアではなく、ヴェネツィア・ビエンナーレのプレビューに行くべきだと書いた。その理由はわかっていただけたかと思う。ビエンナーレのほうが、アートワールドが宿命的に抱え込んでいる矛盾・撞着が、ちょっと頭を使えば誰にでも見えてくるからだ。

 アート・バーゼルはスイスのバーゼルで毎年開催される、世界で最も格の高いアートフェアである。1970年以降、着実に入場者数と売上を伸ばし、現在では本拠地のほか、マイアミビーチと香港でも開かれている。2015年度には33ヶ国から284ギャラリーが出展し、6日間に98,000人が訪れた(主催者発表)。フェアの公式スポンサーのひとつ、保険・金融グループのアクサ(AXA)によれば、出展作品の推計総額は30億ドル以上に上る。


 アート業界では「ヴェネツィアで観て、バーゼルで買う」とよく言われる。ふたつの都市は距離的に近く、また開催日程も近接している。2015年は、ビエンナーレがミラノ万博と合わせたために開幕日が1ヶ月ほど前倒しになったが、普通は隔年6月の第1週にビエンナーレが開幕し、毎年6月第2週にアート・バーゼルが開催されるのだ。アートワールドのVIPたちは、初夏の旅行を兼ねて(スーパーコレクターはプライベートジェット機で)2都市の大イベントをハシゴする。

 しかし距離や開催時期の近さだけが、「ヴェネツィアで観て、バーゼルで買う」という言い回しが存在する理由ではない。たとえて言えば、ヴェネツィア・ビエンナーレは『紅白歌合戦』に似ている。真偽のほどは知らないが、紅白のギャラは破格に安いと言われている。それでも多くの歌手が出演したがるのは、名誉であることに加え、出演後に地方公演などのギャラが跳ね上がるからだという。同じ力学が、NHKホールから遠く離れたイタリアのアートイベントにも働いている。ヴェネツィアに出展した作家は値が上がるのだ。

 昨今では、直接売買に関係のない、そして非常に質の高い特別展やパフォーマンスも会期中に開催されるようになったが、アート・バーゼルは基本的に売り買いを行う場である。ヴェネツィアでは買えない(売っていない)作品が、ここでは買える(売っている)。それも、各国の最高クラスのギャラリーが、世界最高レベルの作家の作品を展示し、世界でも指折りの大金持ちに売ろうとするのだから、ゴージャスさにおいてはヴェネツィアを凌ぐ部分がある。VIPには、リムジンによる送迎、特別朝食・昼食・晩餐会、エクスクルーシブな内覧会やパーティへの招待などのサービスが供される。これらに参加できれば、アートワールドに属する一握りの人々が、どのように遇されているかがよくわかるだろう。

 売り買いを行う場は、根本的に本音が支配する。ヴェネツィア・ビエンナーレが面白いのは、そこが売り買いの場ではないために、「反グローバル資本主義」というような建前がまず打ち出され、その向こうに本音が透けて見えるという二重性があるからである。バーゼルの特別展も建前を主張することがあるとはいえ、やはりビエンナーレは規模と影響力においてはるかにバーゼルを凌駕する。近松門左衛門ではないが、虚実皮膜というか、本音と建て前の乖離こそが何ごとにおいても面白いのだと思う。

 ともあれ、アートワールドに入るということは、望むと望まざるとに関わらず、グローバル資本主義の「勝ち組」に加担するということである。もちろん勝ち組も様々で、無料の酒に群がる寄生虫のような小ムジナもいれば、莫大な資産によって下々の上に君臨する恐竜のような巨大ムジナもいる。次回から、キュレーターやジャーナリストとは比べものにならない、アートワールドの中核にいる獰猛な巨竜たちを紹介する。

◇ ◇ ◇

小崎哲哉さんの連載「現代アートのプレイヤーたち」は、書籍として刊行されたの機に、1、2回以外は非公開とさせていただきました。

『現代アートとは何か』
小崎哲哉
河出書房新社

プロフィール

小崎哲哉

1955年、東京生まれ。ウェブマガジン『REALTOKYO』『REALKYOTO』発行人兼編集長。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。2002年、20世紀に人類が犯した愚行を集めた写真集『百年の愚行』を刊行し、03年には和英バイリンガルの現代アート雑誌『ART iT』を創刊。13年にはあいちトリエンナーレ2013のパフォーミングアーツ統括プロデューサーを担当し、14年に『続・百年の愚行』を執筆・編集した。

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