コラム

なぜ「構造改革論」が消えたのか

2018年06月02日(土)10時00分

Torsakarin-iStock

<日本の経済論壇をかつて支配した構造改革主義の政策命題が、現実そのものによって反証された>

日本経済に長期不況が定着しつつあった1990年代末から2000年代初頭の経済論壇を席巻したのは、何よりも「構造改革論」であった。テレビでは当時、ダウンタウンの松本人志が缶コーヒーを手にしながら「構造改革のキモは改革を構造することではなくて構造を改革することやね」としたり顔で語るコマーシャルがよく流されていた。そうした他愛もない禅問答のようなセリフを単なるシャレでなくて深い意味があるかのように勘違いさせてしまうような空気が、当時は確かにあった。

ところで、筆者は以前のコラム「黒田日銀が物価目標達成を延期した真の理由」(2016年11月25日付)の中で、黒田日銀が2%インフレ目標の達成を実現できずにいるのは、2014年4月に実行された消費税増税による予想外の消費減少という問題以上に、実際の完全雇用失業率あるいはNAIRU(インフレ非加速的失業率)が事前に想定されていたそれよりもはるかに低かったためであることを指摘した。

黒田総裁が2014年初頭の時点で述べていたところでは、日銀は当時、完全雇用と考える構造的失業率を3%台半ばと想定していた。ところが、現実の失業率はそれ以降、3%台半ばからさらに低下し、2018年には遂に2%台半ばにまで至った。にもかかわらず、物価や賃金の上昇には加速する気配はまったく見られなかった。それは、「実際の完全雇用失業率あるいはNAIRUは、3%台半ばどころか2%台半ばよりもさらに低かった」ことを意味している。

このように考えてみると、黒田日銀が2%インフレ目標の達成に時間を要しているという事態は、必ずしも悪いことばかりではないといえる。というのは、それは「日本の実際の完全雇用失業率=構造的失業率は予想以上に低かった」ことの現れであり、それはまた、日本経済にはまだ雇用を拡大させる余地が残されていることを意味するからである。

1980年代までの日本経済は、どのような厳しい不況でも完全失業率が3%を越えることはほとんどない、先進国の中でも突出した「低構造的失業」経済であった。この低い構造的失業率という日本経済の優れた特質は、1990年代半ば以降の20年以上にもわたる高失業時代の中でも、決して失われてはいなかったのである。

このことは、もう一つの重要な真実を示唆している。それは、「日本経済の長期経済停滞の原因は需要不足にではなく供給側の構造問題にあり、したがってそこからの脱却にはマクロ経済政策ではなく構造改革が必要である」という、日本の経済論壇をかつて支配した構造改革主義の政策命題が、現実そのものによって反証されたということである。このいわゆる「構造改革論」が、近年の経済論壇では、反市場原理主義的な立場から批判されることはあっても積極的に称揚されることはなくなったのは、それを裏付けている。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

焦点:25年下半期幕開けで、米国株が直面する6つの

ワールド

日米豪印、4月のカシミール襲撃を非難 パキスタンに

ビジネス

米ゴールドマン、投資銀行部門グローバル会長にマライ

ワールド

気候変動災害時に債務支払い猶予、債権国などが取り組
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプvsイラン
特集:トランプvsイラン
2025年7月 8日号(7/ 1発売)

「平和主義者」のはずの大統領がなぜ? 核施設への電撃攻撃で中東と世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 2
    ワニに襲われ女性が死亡...カヌー転覆後に水中へ引きずり込まれる
  • 3
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。2位は「身を乗り出す」。では、1位は?
  • 4
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    砂浜で見かけても、絶対に触らないで! 覚えておくべ…
  • 7
    世紀の派手婚も、ベゾスにとっては普通の家庭がスニ…
  • 8
    ワニに襲われた直後の「現場映像」に緊張走る...捜索…
  • 9
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 10
    あり?なし? 夫の目の前で共演者と...スカーレット…
  • 1
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門家が語る戦略爆撃機の「内側」と「実力」
  • 4
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた…
  • 5
    定年後に「やらなくていいこと」5選──お金・人間関係…
  • 6
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 7
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 8
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 9
    サブリナ・カーペンター、扇情的な衣装で「男性に奉…
  • 10
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 6
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 7
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 8
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 9
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story