コラム

クリミア:グレート・ゲームは再来するか

2014年03月20日(木)09時40分

 中東研究者の多くは今、クリミアで起きていることを見て、こう思い描いている――「これは、第一次世界大戦前夜の再現か」。

 今回浮き彫りになった、ウクライナ新政権=EU対ウクライナの親ロシア派=ロシアという対立は、自由と民主主義対独裁・権威主義という構図で描かれがちだ。だが、黒海地域を巡る権益と覇権争いという観点から見れば、19世紀のグレート・ゲームによく似ている。16世紀半ばから19世紀末まで繰り返し戦われた露土戦争に始まり、19世紀後半に、オスマン帝国やカージャール朝ペルシアに対して、当時のロシア帝国が執拗に行ってきた南下、侵略戦争を彷彿とさせるからだ。

 ロシアとオスマン帝国(英仏が支援した)の間で1853年に起きたクリミア戦争は、ロシアがモルドヴァなどをオスマン帝国から「解放する」という口実で行われた。10年前のイラク戦争にせよ、二世紀以上前のナポレオンのエジプト侵攻にせよ、地元住民を圧制から解放するために、という名目で軍事侵攻が行われるのは、うんざりするくらい繰り返される、歴史の愚挙である。今回のロシアの行動に対して、汎アラブ大手紙の『シャルクル・アウサト』の非難の矛先は、「19世紀、ロシアは「キリスト教徒保護」といってコーカサスをイランから奪ったじゃないか」という点だ。

 3月16日、クリミア「独立」決定の国民投票でボイコットを決めたタタール人の存在が、この地域でのグレート・ゲームの名残を象徴している。クリミア人口の一割強を占めるクリミア・タタール人はトルコ系のイスラーム教徒で、15世紀にクリミア・ハーン国がオスマン帝国の保護下に入ったが、18世紀以降、度重なるロシアの侵攻を経て、1783年にオスマン帝国から「独立」したクリミアをロシアが併合した。

 21世紀の「併合」に直面して、タタール人が被ってきた弾圧の歴史がよみがえっても、おかしくない。さらに第二次大戦終戦直前には、ナチスによるクリミア占領の期間中ナチスに協力したとして、24万人弱のタタール人が郷土を追放される事件が起きた。うち半数近くが、飢餓や移動中の病気などで死亡したとされる。上に引用した『シャルクル・アウサト』は、この史実を引いて、「エルドガン首相率いるトルコは、かつてイノニュ大統領がソ連によるタタール人虐殺に何もしなかった、という失敗を繰り返すことはできないだろう」と論評している。

 加えて、クリミアのイスラーム教徒がロシアに弾圧されている、という構図が、チェチェンなどのコーカサスでのイスラーム武闘派を刺激することも、考えられるのではないか。先にあげた18世紀のクリミア併合では、その2年後にチェチェンで反ロシア・ジハード運動が始まっている。

 冷戦終結で、第二次大戦後に国際社会が抱えてきた課題は、終わった。その結果、冷戦後には、第一次大戦までに世界が抱えていた諸問題が噴出した。遡れば1990年、イラクのクウェート侵攻は、第一次大戦後に西欧主導で構築された中東の諸国体制に、疑義を投げかける行動だった。第一次大戦前、オスマン帝国が健在だったとき、クウェートがバスラ州の一部だったから、バスラ同様イラクに編入されるべきなのだ、とイラクが主張したからだ。このイラクの論理に、当時のトルコ政府が「だったらイラクまとめてトルコのもののはずじゃないか」と混ぜっ返した、というオチもついた。

 その紛争の多くがオスマン帝国の解体という第一次大戦の遺恨に起源を有しているのは、中東諸国に限らない。ユーゴスラビア崩壊後のボスニア、コソヴォもまた、そうだ。また、アフガニスタンのターリバーン政権や、パレスチナを起点として中央アジアなど国際的に展開するイスラーム解放党が目標としたのは、オスマン帝国の消失とともに廃止されたカリフ制の再興である。19世紀の西欧列強の進出過程で、中東、中央アジアに存在したそれまでの国家体制が強引に崩され、それに西欧主導の第一次大戦後システムが被せられたわけだが、そのシステムに居心地が悪いと考える人たちが、イスラーム世界では少なからずいたわけだ。

 いっそ時計の針を第一次大戦、あるいは西欧列強の進出以前に戻して、そこから中東の地域システムを作り直そう、とするアラブ・ナショナリズムやイスラーム主義者などの勢力に対しては、欧米諸政府は、「世界中が大混乱になるから、国境の変更は認めない」として、徹底的に抑えつけてきた。クウェートに侵攻したイラクに、欧米先進国が湾岸戦争で対応したのは、典型的な例だ。

 さて今、ロシアのクリミア併合に対して欧米は何をしようとしているのか。少なくとも湾岸戦争の時のように「武力でロシアをクリミアから追い出す」勢いは、ない。結局は力のある国の無理が通る、という現実が見えてくる。だとすると、やはり世界はグレート・ゲームの時代が再来するのか。ならば、国境の変更という、欧米世界が蓋をしたはずの「第一次大戦前、西欧列強が壊したシステム再興」への封印もまた、解けるのか。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米中貿易枠組み合意、軍事用レアアース問題が未解決=

ワールド

独仏英、イランに核開発巡る協議を提案 中東の緊張緩

ワールド

イスラエルとイランの応酬続く、トランプ氏「紛争終結

ワールド

英、中東に戦闘機を移動 地域の安全保障支援へ=スタ
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 2
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 3
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されずに「信頼できない人」を見抜く方法
  • 4
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 5
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 6
    構想40年「コッポラの暴走」と話題沸騰...映画『メガ…
  • 7
    逃げて!背後に写り込む「捕食者の目」...可愛いウサ…
  • 8
    「結婚は人生の終着点」...欧米にも広がる非婚化の波…
  • 9
    4年間SNSをやめて気づいた「心を失う人」と「回復で…
  • 10
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 7
    ふわふわの「白カビ」に覆われたイチゴを食べても、…
  • 8
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 9
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 10
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 1
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 2
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story