コラム

イラク:前門のIS、後門の洪水

2016年02月05日(金)14時30分
イラク:前門のIS、後門の洪水

モースル・ダムでは今、緊急の補強工事が実施されているが Azad Lashkari-REUTERS

 昨年末、「イスラーム国」(IS)から西部のラマディを奪回して勝利の報に酔いしれたイラクのアバーディ首相だが、今年一月、思わぬ敵に直面している。イラクの真ん中を流れるチグリス川上流の、モースル・ダムが決壊寸前の状態にあるからだ。このダムが崩壊したら、4時間でモースルは水没し、増水した川は1日以内でティクリートを、2日でバグダードを襲う。首都ではバグダード国際空港やサドル・シティーなどは被害を免れそうだが、都市の中心部のほとんどが冠水すると推測されている。その結果、最悪の場合には50万人が死亡し、100万人以上が家を追われるという。イラク戦争にも匹敵する、アルカーイダやISや宗派対立による内戦などの被害をはるかに超えた大参事になるのでは、と恐れられているのだ。

 何故、ダムが決壊の危機に至っているのか。1984年に建設されたモースル・ダムは、もともと老朽化していたが、イラク戦争後も2014年まではなんとかメンテナンスができていた。しかし同年6月にISがモースルを制圧し、その北にあるモースル・ダムも一時期支配下においた。イラク側は1か月余りでこれを取り戻したものの、モースルにISがいることからリスクが大きく、その後もメンテナンスのためにイラク人エンジニアがダムに戻ることがなかったため、老朽化がどんどん進んだのである。さらに昨今の石油価格の低迷で、イラクの石油収入が激減していることも、改修工事に手がつけられない原因になっている。

【参考記事】ISIS支配下で民間人犠牲者1万9000人の地獄、国連報告書

 イラクは、20世紀半ばまで洪水に悩まされ続けてきた国である。イラク現代史の名著「イラクの旧社会階級と革命運動」を記した故ハンナ・バタートゥ教授によれば、バグダードは1633年、1656年、1786年、1822年、1831年、1892年、1895年と、歴史的に繰り返し洪水被害を受けてきたという。特に1831年の大洪水では、同時に疫病が大流行した。さらに、オスマン軍によるバグダード包囲が追い打ちをかけた。オスマン政庁は、前年に当時のバグダードの統治者だったダーウード・パシャを解任していたが、パシャは命に反して知事職に居座ったため、オスマン軍が出動する事態となり、包囲された住民は飢饉に喘いだ。その結果、バグダードの人口はその一年で三分の一に激減したと言われている。政治的混乱による人災と洪水という自然災害のダブルパンチは、今に始まったことではない。

 なので、今や700万以上の人口を抱える大都市バグダードも、19世紀前半には人口は三万人に満たなかったという。それが、今のようにイラク国内人口の四分の一近くを占めるほどに膨れ上がったのは、20世紀半ばにチグリス、ユーフラテス両河の治水管理が完備したからである。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

EU、Xに1.4億ドル制裁金 デジタル法違反

ビジネス

ユーロ圏第3四半期GDP、前期比+0.3%に上方修

ワールド

米、欧州主導のNATO防衛に2027年の期限設定=

ビジネス

中国の航空大手、日本便キャンセル無料を来年3月まで
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%しか生き残れなかった
  • 2
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させられる「イスラエルの良心」と「世界で最も倫理的な軍隊」への憂い
  • 3
    高市首相「台湾有事」発言の重大さを分かってほしい
  • 4
    【クイズ】17年連続でトップ...世界で1番「平和な国…
  • 5
    「ボタン閉めろ...」元モデルの「密着レギンス×前開…
  • 6
    左手にゴルフクラブを握ったまま、茂みに向かって...…
  • 7
    ロシアはすでに戦争準備段階――ポーランド軍トップが…
  • 8
    日本酒の蔵元として初の快挙...スコッチの改革に寄与…
  • 9
    「ロシアは欧州との戦いに備えている」――プーチン発…
  • 10
    主食は「放射能」...チェルノブイリ原発事故現場の立…
  • 1
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 2
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体を東大教授が解明? 「人類が見るのは初めて」
  • 3
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%しか生き残れなかった
  • 4
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 5
    128人死亡、200人以上行方不明...香港最悪の火災現場…
  • 6
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 7
    【クイズ】世界遺産が「最も多い国」はどこ?
  • 8
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 9
    【クイズ】17年連続でトップ...世界で1番「平和な国…
  • 10
    日本酒の蔵元として初の快挙...スコッチの改革に寄与…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 6
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 7
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 8
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story