コラム

イラク:前門のIS、後門の洪水

2016年02月05日(金)14時30分

 頻繁に洪水を起こすチグリス川をどう扱うか――。オスマン帝国時代、バグダードは市壁に囲まれていた。近代化の推進者、ミトハト・パシャがオスマン帝国のバグダード知事に就任すると、市壁は壊され、代わりに旧市壁の外側に堤防が築かれた。堤防で街を囲って、都市部を洪水から守ったのだが、それはバグダード北部の上流のタージのあたりで堤防を切って、水を堤防の外に流すのである。

 だから、堤防の外、都市中心を直撃しないように上流で水を逃がした先は、冠水してひどい洪水の被害を受けた。そのため堤防の外側は20世紀半ばまで常に湿地帯になっており、堤防の内側の庇護された住宅街とは雲泥の差だった。そこに、南部の農村地帯から喰うに困った小作人が移住してくる。生活施設が完備された堤防内の高級住宅街に住めるほどの収入があるわけではないから、堤防外の、じめじめした湿地帯に不法に居を構える。地盤の悪い場所に葦葺きの小屋を建て、堤防内からこっそり電気や上水をひっぱってきて生活する。湿地帯だったので水牛を飼って生活の足しにする家もあった。この最底辺の人たちこそが、今のイラク政府の与党の一角を占めるサドル派の支持基盤、サドル・シティーの人々である。サドル・シティーは、1965年にその外側に堤防が建設されるまでは、常に堤防外の、洪水の被害が直撃する場所だった。

 堤防に並行して、20世紀半ばには治水事業も進んだ。1956年にチグリス、ユーフラテス川の間に人造貯水湖、サルサル湖を建設し、72年には両方の川から水が流れこむことができるようにサルサル運河が建設された。その結果、イラクは1954年の洪水を最後に、洪水被害を受けることはなくなったのである。サルサル湖のおかげで、堤防の外に川の水を流す必要も減った。住宅街が堤防の外へと拡大することが可能となり、バグダードへの人口集中が加速したのだ。

【参考原稿】イラク・バスラの復興を阻むもの

 さて、モースル・ダムが決壊したら、サルサル湖では収容しきれないと言われている。となると、昔ながらの方法で、堤防の外に増水した分を流して都市を守るしかない。だが、川のどこを切って水を流すのか。バグダードを守るために、バグダード以北のどの街、どの地域を犠牲にするのか。その判断は、極めて政治的なものになる。

 水を支配するものは国土を支配するものでもある。かつてサッダーム・フセインは、南部湿地帯で活動する反政府勢力や脱走兵に悩まされた結果、チグリス川、ユーフラテス川と別に大運河を建設、湿地帯に流れ込む水量を激減させた。湿地帯は干上がり、そこに住む住民の環境が変わって生活に困っただけではなく、反政府ゲリラが隠れる場所もなくなった。

 80年代に筆者がイラクに駐在していたとき、大学図書館で多くの洪水対策、治水管理関係の調査資料や報告書を見つけたことがある。その知識の豊富さに驚いたものだが、さて、そうした戦前の資料は現下の危機に有効に活用されるものかどうか。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

一部の関税合意は数週間以内、中国とは協議していない

ワールド

今年のロシア財政赤字見通し悪化、原油価格低迷で想定

ワールド

中国、新型コロナの発生源は米国と改めて主張 米主張

ビジネス

FRBは現行の政策運営枠組み撤廃でより厳格にインフ
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 2
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・ロマエとは「別の役割」が...専門家が驚きの発見
  • 3
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 4
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 5
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 6
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 7
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 8
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 9
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 10
    中居正広事件は「ポジティブ」な空気が生んだ...誰も…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 7
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 10
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 9
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 10
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story