コラム

旧ユーゴスラビア訪問雑記(その2)

2009年10月29日(木)12時21分

 芸術の秋。東京の国立新美術館では現在「ハプスブルグ展」が開催されている。華麗な王女たちの肖像画や宮廷画家の名作が話題を呼んでいるが、筆者にしてみれば、ハプスブルグ家といえば、19世紀から第一次大戦まで中欧で勢を誇ったオーストリア・ハンガリー帝国の王家だ。

 九月に訪問したボスニアでは、第一次大戦と帝国の終焉の契機となった「サライェヴォ事件」、つまりオーストリア皇位継承者のフェルディナンド夫妻が暗殺された現場にも行ってきた。サライェヴォ市内を流れるミリャッカ川沿いの大通りに、生々しい当時の写真が掲げられている。川の対岸には、小高い丘。90年代のボスニア内戦の時には、丘の向こうからセルビア軍がこの街に激しい空爆を行った。建物のあちこちに、砲弾のあとが残る。ボスニアを含むバルカン半島は、今も昔も「ヨーロッパの火薬庫」だ。
 
 バルカン半島がなぜ常に火種とみなされるのか。その理由のひとつが、複雑な民族構成である。このことを考えるときに重要なのが、このオーストリア・ハンガリー帝国とその東のオスマン帝国という、多民族を抱える帝国の存在だ。バルカン半島の諸民族は、19世紀以降常に帝国間抗争の最前線に巻き込まれてきた。

 特にオスマン帝国という国は、民族ではなくイスラームに基づいて統治されていた。帝国のなかで生きていく上で、イスラーム教徒であれば、民族は基本的に関係ない。自分が何民族なのか、ということがさほど重要ではないシステムのなかで、人々は生活していた。
  
 それが近代以降、ヨーロッパから、民族自決の考え方が入ってくる。多民族社会のなかに、独立とか国家の主権とか、あるいは独立国家の閣僚ポストとか、現実の政治経済的権利が絡んでくれば、紛争が起きる。それは、すでにそこにあった民族同士が戦いあう、というのではない。ボスニアでは、ムスリム人もクロアチア人もセルビア人も、言葉も文化も同じ社会の一員だったのだが、紛争を生き延びるために、自分が何民族なのかを規定しなければならない状況におかれた。

 中東が抱える諸紛争もまた、同様の問題を抱えている。ユーゴスラビア同様に、「民族・宗派対立が複雑」といわれるレバノンや現在のイラクも、実のところその対立は、そのときの政治状況、国際環境によって引き起こされた要素が強い。レバノンはイスラエルからのパレスチナ難民の流入によって、イラクはいわずと知れたイラク戦争によってである。

 もともとあった民族が対立しあっている、と考えると、わかりやすく見える。だが、旧ユーゴや中東地域を訪れると、主義主張や経済利益や政治的特権、他国との関係や国際社会の介入などによって、かつて共存していた人々がいかに「民族」の名で引き裂かれていったか、実にヴィヴィッドに浮き上がるのだ。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

英中銀が金利据え置き、量的引き締めペース縮小 長期

ワールド

台湾中銀、政策金利据え置き 成長予想引き上げも関税

ワールド

UAE、イスラエルがヨルダン川西岸併合なら外交関係

ワールド

シリア担当の米外交官が突然解任、クルド系武装組織巡
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、日本では定番商品「天国のようなアレ」を販売へ
  • 2
    中国は「アメリカなしでも繁栄できる」と豪語するが...最新経済統計が示す、中国の「虚勢」の実態
  • 3
    1年で1000万人が死亡の可能性...迫る「スーパーバグ」感染爆発に対抗できる「100年前に忘れられた」治療法とは?
  • 4
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 5
    燃え上がる「ロシア最大級の製油所」...ウクライナ軍…
  • 6
    【クイズ】世界で最も「リラックスできる都市」が発…
  • 7
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 8
    中国山東省の住民が、「軍のミサイルが謎の物体を撃…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサイルが命中、米政府「機密扱い」の衝撃映像が公開に
  • 4
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 5
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 6
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「なんて無駄」「空飛ぶ宮殿...」パリス・ヒルトン、…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story