コラム

安倍総裁の提唱する自民党の「焼け跡」政策

2012年11月16日(金)22時40分

 衆議院が解散された。前回2009年の総選挙は「政権交代」がテーマだったが、今回の総選挙は経済政策になりそうだ。野田首相はTPP(環太平洋パートナーシップ)参加と「脱原発依存」を掲げる一方、自民党の安倍総裁は日銀法改正とインフレ目標を掲げた。

 特に市場に大きなインパクトを与えたのは、安倍総裁の「2~3%のインフレ目標を設けて日銀に無制限に緩和してもらう」という発言だ。これを受けて円相場は半年ぶりに1ドル=81円台になり、日経平均株価は9000円台に乗せた。安倍氏は解散後の記者会見でも「日銀法改正を視野に入れ、大胆な金融緩和をする。かつての自民党とは次元を変えた経済政策をとってデフレ脱却に挑む」と語った。

 これについて記者会見でコメントを求められた野田首相は「中央銀行の独立性の問題が出てくるのではないか」と疑問を呈した。日銀法では日銀の独立性が保証されており、政府が「緩和しろ」とか「引き締めろ」ということは許されない。法的に日銀を拘束する目標は「物価安定」だけで、そのために金融調節をどうするかは日銀にゆだねられている。これは政治家には、つねに金融緩和を求めるインフレバイアスがあるからだ。

 1980年代に日本の製造業は急速な円高に苦しんだため、日銀が公定歩合を2.5%まで下げた結果、余った資金が株式市場や不動産に流れ込み、バブルが発生した。アメリカでは2000年のITバブル崩壊のあと、FRB(連邦準備制度理事会)が低金利政策を続けたことが住宅バブルを生んだ。どちらの場合も消費者物価指数は上がらなかったので、インフレ目標で通貨をコントロールすると、バブルが崩壊するまで緩和が続けられるだろう。

 もし安倍氏のいうように2%のインフレ目標を設けて、政府が「目標が達成されるまで無制限に緩和しろ」と命令すると、何が起こるだろうか。安倍氏は物価上昇率が0.1%、0.2%・・・というように徐々に上がっていくと思っているのだろうが、そういうことは起こらない。日銀の保有資産はGDP比で約30%(150兆円)と世界最大規模で、リーマンショック以後1.5倍に増えたが、デフレが続いている。物価は日銀の通貨供給量(マネタリーベース)に比例しないのだ。

「それは緩和が足りないからだ」と安倍氏はいうかもしれないが、これを200兆円、300兆円・・・と増やしてゆくと、何が起こるだろうか。みずほ証券チーフマーケットエコノもストの上野泰也氏は、日銀の信認は「プラスチックの棒」のようなものだという。ある程度まで力を入れても何も起こらないが、一定以上の力がかかるとポキッと折れてしまう。日銀の信認が失われると、二度と元には戻らないのだ。

 無制限に緩和を続けると、マネタリーベースがある限度を超えたときインフレ予想が生まれ、金融資産が海外や実物資産に逃避し始める。これによって円が下がると輸入物価が上がってインフレが加速し、資金が不足して金利が上がるとさらにインフレが加速する。通常のインフレは金利を上げれば止まるのだが、インフレ予想で起こるインフレは金利が上がると加速する。これが制御のきかないハイパーインフレである。

 安倍氏の掲げる政策は「マイルドなインフレは起こるがハイパーインフレは起こらない」と想定している。これは物価が粘土の棒のように柔軟に曲がるという前提だが、これまでの動きから考えると、物価はプラスチックの棒に近い。多くの経済学者は安倍氏のいうような無制限の金融緩和はリスクが大きすぎると反対しているが、安倍氏の予想が正しい可能性もゼロではない。

 ハイパーインフレは、日本のように財政危機に陥った国では珍しくない。途上国では10年に1度ぐらい起こっており、どういう結果になるかもわかっている。物価が上がると金利が上がって国債が暴落し、国債を大量に保有している銀行が倒産して金融資産が消滅する。国債による資金調達ができなくなって、財政が破綻する。1000兆円を超える政府債務が吹っ飛ぶと、日本経済は90年代のバブル崩壊(純損失は100兆円程度)をはるかに上回る打撃を受けるだろう。

 しかし円が暴落すると日本の製造業の競争力が回復し、ハイパーインフレで金融資産が失われると世代間の不公平もなくなり、実質ベースの政府債務も大幅に軽減される。安倍氏がそういう「焼け跡」から日本経済を再出発させようと考えているのなら、それも意味のある選択肢だろう。もしかすると日本には、その道しか残されていないのかもしれない。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

セルビアはロシアとの協力関係の改善望む=ブチッチ大

ワールド

EU気候変動目標の交渉、フランスが首脳レベルへの引

ワールド

米高裁も不法移民送還に違法判断、政権の「敵性外国人

ビジネス

日銀総裁、首相と意見交換 「政府と連絡し為替市場を
MAGAZINE
特集:豪ワーホリ残酷物語
特集:豪ワーホリ残酷物語
2025年9月 9日号(9/ 2発売)

円安の日本から「出稼ぎ」に行く時代──オーストラリアで搾取される若者たちの実態は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニングをする女性、異変を感じ、背後に「見えたモノ」にSNS震撼
  • 2
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体」をつくる4つの食事ポイント
  • 3
    「見せびらかし...」ベッカム長男夫妻、家族とのヨットバカンスに不参加も「価格5倍」の豪華ヨットで2日後同じ寄港地に
  • 4
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 5
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が…
  • 6
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動…
  • 7
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 8
    Z世代の幸福度は、実はとても低い...国際研究が彼ら…
  • 9
    トレーニング継続率は7倍に...運動を「サボりたい」…
  • 10
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 1
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が下がった「意外な理由」
  • 2
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動ける体」をつくる、エキセントリック運動【note限定公開記事】
  • 3
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ女性が目にした光景が「酷すぎる」とSNS震撼、大論争に
  • 4
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体…
  • 5
    25年以内に「がん」を上回る死因に...「スーパーバグ…
  • 6
    豊かさに溺れ、非生産的で野心のない国へ...「世界が…
  • 7
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 8
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
  • 9
    首を制する者が、筋トレを制す...見た目もパフォーマ…
  • 10
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 1
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 2
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 3
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大ベビー」の姿にSNS震撼「ほぼ幼児では?」
  • 4
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 5
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 6
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 7
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 8
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 9
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 10
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story