
イタリア事情斜め読み
極左と極右、違法占拠が映す現代イタリア
| ヨーロッパ特有の占拠文化とその終焉
占拠型社会文化拠点の歴史的・社会的背景
レオンカヴァッロやカーサパウンドのような「占拠型社会文化拠点(squatted social centers)」は、イタリアやスペイン、ドイツ、フランスなどヨーロッパの一部に特有の現象である。これには明確な歴史的・社会的背景と、欧州独自の政治文化が関係している。
第一に、ヨーロッパには「使用権」を重視する法制度の伝統がある。イタリアでは、「空き家を何年も放置すること」の社会的非難が根強く、居住権・使用権が所有権より重視される傾向も一部に存在する。司法判断でも、一定期間占拠が続き社会的機能を果たしていれば、即時排除されないことも多い。
第二に、ヨーロッパの多くの都市は、異なる政治思想の拠点が都市の一部として共存してきた歴史を持つ。リベラルな劇場、共産党系のカフェ、アナーキストの文化センターなどが同一都市内に並存し、それぞれが一定の社会的機能を担ってきた。地方自治体の中には、占拠拠点に補助金を出したり、黙認する形で「代替的な市民空間」として機能を認める事例もある。
第三に、戦後の政治対立と都市空間の変化が重要な要因となっている。第二次世界大戦後、イタリアではファシズムへの反動から強い左派文化と社会運動が育った。1968年以降の学生運動・労働運動・フェミニズム・反帝国主義運動が都市空間に進出し、空きビルの占拠が政治実践の一部となった。特に1970年代から80年代の「鉛の時代」では、国家に対抗する市民の自治拠点としての意味合いが強まった。
| 日本との対比:公共空間のあり方の違い
それに対して日本では、土地・建物の所有権が極めて強く保護され、長期間の不法占拠が黙認されることは基本的にない。また、公共空間の「政治利用」に対する社会的抵抗感も強く、政治色の強い拠点が定着すること自体が難しい文化的背景がある。日本の都市空間は「中立性」や「秩序」が優先され、政治的主張を伴う空間づくりが警戒されがちだ。
この違いは、戦後復興の過程における国家と市民社会の関係性の違いに由来する。日本では、戦後復興において国家主導の近代化が優先され、市民による自主的な空間創出よりも、制度化された公共サービスの充実が重視された。
これに対してヨーロッパ、特にイタリアでは、国家への不信と市民社会の自律性が並存し、制度の隙間を埋める「自主管理」の実践が一定の正統性を持った。
| カーサパウンドの将来予測
極右拠点の持続可能性
今後、この極右拠点はどうなるだろうか。メローニ政権の政治的優先順位を考えれば、カーサパウンドが強制退去される可能性は極めて低いと考えられる。むしろ、現政権の「反移民」「ナショナリズム」的政策と親和性の高い活動を続ける限り、事実上の庇護を受け続ける可能性が高い。
しかし、カーサパウンドが直面する課題もある。それは、国際的な監視の強化だろう。
EU諸国における極右勢力への監視が強化される中で、カーサパウンドの国際的な連携活動は制約を受ける可能性がある。世代交代の問題だ。創設から20年を経て、初期のメンバーの高齢化と新たな支持層の獲得が課題となっている。
政治的環境の変化だ。メローニ政権が続く限りは庇護を受けられるが、政権交代があれば状況は変わりうる。
最も可能性が高いシナリオは、カーサパウンドが現在の形で活動を継続し、イタリア社会における極右思想の温床として機能し続けることだろう。彼らは巧妙に「社会支援」の外装をまとって活動を続け、特に経済的困窮層への浸透を図ると予想される。
| 占拠文化の終焉と都市の未来
レオンカヴァッロの強制退去は、ヨーロッパにおける占拠文化の一つの終わりを象徴している。冷戦終結後に花開いた「もう一つの都市空間」への実験は、新自由主義の深化と権威主義的政治の台頭によって、その存続基盤を失いつつある。
この変化は、都市における公共性の概念の根本的な変容を意味している。かつては「制度の外側」にも一定の政治的・文化的余白が許されていたが、今やすべての空間が国家の管理下に置かれ、「法の支配」の名の下に均質化が進んでいる。しかしその「法の支配」が選択的に適用されることで、実際には政治的な偏向が生じている。
50年の歴史を持つセンターの終焉は、単なる法的措置ではなく、「どのような都市を私たちは生きるのか」という根本的な問いを社会に突きつけている。公共とは何か、支援とは誰のためのものか、文化とは何によって定義されるのか。これらの問いは、ますます政治的分断が進むイタリア社会において、今後の都市政策を方向づける重要な指標となりうるものだ。
レオンカヴァッロの消失は、一つの時代の終わりを告げている。それは「自由な都市の夢」が制度的現実に屈した瞬間であり、同時に「法の支配」が政治的選択性を帯びていることを明示した出来事でもあった。都市空間は中立でも均質でもない。そこには常に、見える権力と見えない権力が交錯し、包摂と排除の境界線が引かれ続けている。
カーサパウンドという「鏡」は、現代イタリア社会の光と影を映し出している。
その存在が続く限り、レオンカヴァッロの強制退去は単なる法執行ではなく、政治的選択としての性格を帯び続けるだろう。都市は中立的な舞台ではない。そこには常に、見える権力と見えない権力、包摂する力と排除する力が複雑に絡み合っている。そして今、その力学は明確な政治的方向性を持って作動している。
この二重構造を前に、我々は都市空間が政治的に中立ではないことを再認識せざるを得ない。都市とは、異なる思想と利害がぶつかり合う現場であり、政治と文化の交差点であり、権力の非対称性が最も可視化される場所である。そして今、その非対称性は、法の適用においてすら明確に現れている。
イタリアの都市空間をめぐる闘争は、まだ終わっていない。レオンカヴァッロの終焉は一つの章の終わりに過ぎない。次の章がどのような内容になるかは、市民一人一人の選択にかかっている。重要なのは、権力の選択的適用を批判的に検証し、真に公正で包摂的な都市社会の実現に向けて行動することだろう。
都市の未来は、制度や権力者の意思だけでなく、そこに住む人々の選択と行動によって形づくられていく。レオンカヴァッロの消失は一つの可能性の閉ざされ方を示しているが、同時に新たな可能性を模索する契機ともなりうる。市民は、単にレッテルを貼られた「占拠者」や「過激派」ではなく、この都市にどう関わり、どう生きていくのかを模索する主体である。
真に「公共」とは何か、「都市」とは誰のものかという根源的な問いが立ち現れる。制度に与えられるものとしての公共ではなく、日々の暮らしや対話、対立や協働を通じて自ら構築していく空間としての都市。その可能性がレオンカヴァッロの跡地に問われている。
「終わりは始まりである」イタリアの都市の未来は、まだ書き換えうる物語の只中にある。

- ヴィズマーラ恵子
イタリア・ミラノ郊外在住。イタリア抹茶ストアと日本茶舗を経営・代表取締役社長。和⇄伊語逐次通訳・翻訳・コーディネータガイド。福岡県出身。中学校美術科教師を経て2000年に渡伊。フィレンツェ留学後ミラノに移住。イタリアの最新ニュースを斜め読みし、在住邦人の目線で現地から生の声を綴る。
Twitter:@vismoglie