コラム

予期せぬ事態で簡単に貧困に陥る「格差社会」での幽霊のような存在

2020年07月14日(火)14時00分

米英では自宅のトイレなどの掃除を掃除婦に任せることが一般的になっているが…… Vicheslav/iStock.

<自分が思いがけなく転んだときにそのまま坂を転げ落ちずにすむ社会を、日本も考えておくべき>

シングルマザーになった若い女性が生活のために富裕層の家を掃除する「メイド」の仕事についた回想録『Maid』は、発売早々全米ベストセラーとなり、バラク・オバマ前大統領は2019年に年間推薦図書に選出した。2021年にはNETFLIXで映像化も決定している。

この回想録で描かれるメイドは、自分を見えない幽霊のように扱う者たちの台所やトイレを毎日磨き続ける。だが、著者は貧困、DVを振るう元パートナーや経済的自立を阻む恋人、穴だらけの福祉、偏見の目、そして誰からも尊重されない孤独の中、それら全てが低下させる自己肯定感に苛まれながらも、作家になる夢と、自らの解放を叶えていく。

社会から不運にも疎外された者が地べたから見た格差社会の眺めと、少しずつでも自ら未来を変えていく希望を描いたこの回想録が、今月邦訳出版される。(『メイドの手帖』双葉社刊)

筆者が担当した邦訳版の「解説」を出版社の許可を得て、こちらで抜粋掲載する。

◇ ◇ ◇


『メイドの手帖』解説

2020年5月現在、新型コロナウィルスのパンデミックにより、世界のあちこちで「ソーシャルディスタンス」を取る動きや「ロックダウン(あるいは自宅待機)」がすでに二か月以上続いている。ビジネスを再開し始めた場所もあるが、ワクチンなどの予防策がない現状では、パンデミック前とまったく同じ社会に戻ることはできない。アメリカでは有名な百貨店やレストランが倒産し、この二か月だけで4000万人ほどが失業している。2007年から2008年にかけての(日本では「リーマンショック」として知られる)世界金融危機を遥かに超える経済危機になりつつあることを、多くの人が恐れている。経済的な不安に加え、自宅に閉じこもっていることへの苛立ちが募っており、銃を持ってロックダウン反対の抗議運動をする集団もある。この不穏な雰囲気を反映するかのように、ソーシャルメディアでの論争も目立つようになっている。

つい最近のことだが、イギリスとアメリカの両国を巻き込んだあるツイッター論争に興味を持ち、スレッドを読んでいたところ、本書『メイドの手帖』の著者であるステファニー・ランドのアカウントに遭遇した。ちょうどこの本のことを考えていたので、そのセレンディピティに驚いた。

論争の発端は、イギリスの保守派の男性政治ジャーナリストが「ドメスティックワーカー(家庭内労働者)を自宅に入らせることで、彼らの家庭の家計を助けてあげることができる。自分のおばあちゃんをお茶に招くのとはちがう」と、清掃員や配管工などのビジネスの早期再開を訴えるツイートをしたことだった。それに対し、ガーディアン紙のコラムニストの男性が「清掃員を雇う経済的余裕があるのなら、お金を払って自宅待機してもらい、自分で掃除をするべきだ。その時間の余裕はあるはずだ。それができないとしたら、恐ろしく自分勝手な人間だ」とリプライした。そこにガーディアン紙にも寄稿している女性コラムニストが割り込んできてややこしくなった。「ロックダウンで時間の余裕なんかできてはいない。自宅での仕事場をもう一人の大人と二人のティーンエイジャーとシェアしなければならない私には、もっと時間がなくなった。いつもより家にいる人数が多いから汚れもたまっている。私は掃除で死ぬほど疲れているのに失礼な意見だ」と反論した彼女に、先の男性コラムニストは「ティーンエイジャーに掃除をさせればいい。僕が子どもの頃には日常的な家事は兄弟の間でローテーションだった。それに、低賃金で働く女性に健康のリスクあるいは生命のリスクを負わせるのは利己的ではないか?」と答えた。最初は(面識があると思われる)イギリス人ジャーナリスト/コラムニスト同士のやりとりだったのに、海を隔てたアメリカからも、フェミニストを名乗る白人女性、白人女性の選民意識を批判する有色人種の女性が加わって大炎上した。

自分で自分の家を掃除するのが常識の日本人には、なぜこの話題が炎上したのか理解しがたいだろう。私がアメリカに移住したときにも、カルチャーショックを受けたのが「掃除」に対する感覚の違いだった。娘のプレスクールの同級生が遊びに来ていたときに私がトイレ掃除をしていたら、そのうちの一人が大きな声で「あなたの家、貧乏なの?」と娘に尋ねたのだ。「あなたのお母さん、トイレ掃除しているけれど、うちではクリーニングレディ(掃除婦)がやることだよ」と。私が自分で自宅の掃除をしていることを知って、「そういうことは安く外注して、本業に集中したほうが経済的よ」とアドバイスしてくれた専門職の女性もいた。けれども、私には「自分のトイレの掃除を他の人にさせるなんて、失礼だ」という気持ちが捨てられないし、何よりも自分でやるほうが気楽なのでずっと自分で掃除している。

後で気づいたことなのだが、夫の両親や兄弟、私の友人など、周囲のアメリカ人で掃除婦を雇っていない家庭はほとんどない。特に白人女性の発言の端々からは、「経済的に成功した女は自分でトイレ掃除をするべきではない」という考え方が滲み出す。トイレ掃除が「男社会が女に押し付けてきた汚い仕事」と見なされていた過去だけでなく、貴族や富豪が手の汚れる仕事を使用人に任せてきた歴史がその心理の背景にあるのではないかと思うようになった。また、イギリスなどヨーロッパの白人の国々が北米、カリブ海、アジア、アフリカなどに進出して多くの国を植民地にした時代に、それらの国々の住民を奴隷や使用人として使ってきた歴史も影響している気がする。現在も清掃員の職業についているのは有色人種や移民の女性が多いのだが、彼らに対する白人のクライアントの態度には、テレビや映画で見るイギリス貴族のような横柄さがある。

「トイレ掃除からの解放」は、英米の女性にとっては「抑圧されてきた女性のステレオタイプからの解放」のシンボルかもしれない。だが、トイレ掃除から解放された女性がそれを押し付けているのは、有色人種や移民の女性や、予期せずシングルマザーとなり誰の助けを得ることもできなかった本書の作者ステファニー・ランドのように、職業の選択肢がほとんどない女性だ。ツイッターで口論になるほど必要とされているわりには待遇は最悪だ。重労働なのに時給9ドル程度しかもらえないようだし、交通費も自腹だという。低賃金に加え、働いている間に子どもを預ける人もいない。働けば働くほど不利になるような福祉制度も足を引っ張るので、彼女たちはクタクタになるまで努力しても貧困から抜け出せない。

<関連記事:警官と市民の間に根深い不信が横たわるアメリカ社会の絶望

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

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