コラム

強烈な「毒親」の呪縛から、大学教育で抜け出した少女

2018年12月21日(金)17時00分

両親の宗教観と思想から抜け出すのは容易ではない Laikwunfai/iStock. 

<モルモン教原理主義者の両親の支配から抜け出した少女の回想録は、「毒親」との関係に苦しんだ人たちも共感できる>

アメリカでは日本にはないノンフィクションの人気ジャンルがある。それはメモワールと呼ばれる『回想録(自伝)』だ。日本では「自伝は有名人が書くもの」というイメージがあるが、アメリカでは無名の一般人による回想録がよく出版され、ベストセラーにもなる。

2018年に最も売れた回想録はミシェル・オバマ元大統領夫人の『Becoming』だったが、それが発売されるまで最も注目されていたベストセラーは『Educated』だった。32歳の無名の女性タラ・ウエストオーバーがモルモン教サバイバリストの両親に育てられた半生を綴るこの回想録は、発売直後からニューヨーク・タイムズ紙ベストセラーリストに入った。バラク・オバマ元大統領が夏の読書の推薦書の一つに選んだこともあって幅広い読者に読まれ、読書愛好家向けのソーシャルメディア「Goodreads」で読者が投票する2018年「チョイスアワード」では、回想録のカテゴリで1位になった。

アイダホ州の山脈に囲まれた田舎で7人兄弟の末っ子として生まれたタラ・ウエストオーバー(Tara Westover)は、9歳になるまで日本の戸籍に匹敵する重要な書類である「出生証明書」を持たなかった。タラの父はモルモン教原理主義の「サバイバリスト」であり、母は強い性格の夫に従う従順な妻だった。「サバイバリスト」とは、核戦争や経済の崩壊といった破滅的な災害で生き残るために準備とトレーニングを日常から行っている人たちだ。モルモン教では古くから大災害に備えて1年分の食料を保存しておくことが指導されていたが、サバイバリストはその教えを逸脱した狂信的なレベルにある。反政府の彼らは、学校や病院を含む公的機関は政府が自分たちをスパイし、洗脳するための危険な組織だと信じている。

タラが長年、出生証明書を持たなかったのは、母のお産を助けたのが正式の免許を持たない自称「助産師」だったこともある。アメリカでは出産の報告義務があるが、サバイバリストにとってアメリカの法律は何の意味も持たないのだ。タラの母も無免許の助産婦から学んだ知識で他人の出産を助け、家族の病気や怪我のすべてを薬草で治療した。息子のひとりが交通事故で前頭部にゴルフボールほど大きな穴があき、意識も失っているというのに、電話で娘から相談された父は「家に戻ってお母さんに治療させろ」と命じるのだ。父の命令を無視して兄を病院に連れて行ったタラは、裏切り者として冷たく扱われた。

また、タラと6人の兄と姉は、洗脳を防ぐために学校に行かせてもらえなかったので、学びたければ自分で学ぶしかなかった。通常なら自宅で子供を教育する「ホームスクーリング」は、ホームスクーリング用の教材を使って親が教える。だが、わが子を無償の労働者と捉えていたような父は、危険な仕事を子供に無理やりさせるくせに、教育には興味がなかった。タラは兄のひとりから読み書きを習い、後に教科書を入手して自学で高校卒業レベルの学力を身につける。

タラは「ここにいたらおまえは駄目になってしまう」という兄タイラーの進言でブリガムヤング大学への入学を目指すようになる。ブリガムヤング大学はモルモン教の大学であり、しかもホームスクーリングを受けた子供も受け入れているのでタラにもチャンスがある。「数学」を「数の計算」程度にとらえている母から高等数学を学ぶのは不可能なので、タラは自分で教科書や参考書を買って入学選考に必要な標準テストのACTの勉強をした。ブリガムヤング大学の合格基準より低いが、自学にしては目覚ましい成績を取った16歳の娘に対し、父は理解を示すどころか憤り、大人になったのに家賃を払えないなら家を出ていくよう命じた。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

NY外為市場=ドル小幅高、米利下げ観測で5週ぶり安

ビジネス

米国株式市場=ほぼ横ばい、FRBの利下げ期待が支え

ワールド

ウクライナ外相「宥和でなく真の平和を」、ミュンヘン

ワールド

イスラエル、欧州歌謡祭「ユーロビジョン」参加決定 
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%しか生き残れなかった
  • 2
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させられる「イスラエルの良心」と「世界で最も倫理的な軍隊」への憂い
  • 3
    高市首相「台湾有事」発言の重大さを分かってほしい
  • 4
    【クイズ】17年連続でトップ...世界で1番「平和な国…
  • 5
    日本酒の蔵元として初の快挙...スコッチの改革に寄与…
  • 6
    「ロシアは欧州との戦いに備えている」――プーチン発…
  • 7
    ロシアはすでに戦争準備段階――ポーランド軍トップが…
  • 8
    見えないと思った? ウィリアム皇太子夫妻、「車内の…
  • 9
    【トランプ和平案】プーチンに「免罪符」、ウクライ…
  • 10
    【クイズ】日本で2番目に「ホタテの漁獲量」が多い県…
  • 1
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 2
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体を東大教授が解明? 「人類が見るのは初めて」
  • 3
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%しか生き残れなかった
  • 4
    128人死亡、200人以上行方不明...香港最悪の火災現場…
  • 5
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 6
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 7
    【クイズ】世界遺産が「最も多い国」はどこ?
  • 8
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 9
    日本酒の蔵元として初の快挙...スコッチの改革に寄与…
  • 10
    【クイズ】17年連続でトップ...世界で1番「平和な国…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 6
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 7
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 8
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story