コラム

遺伝性難病が発覚した家族のそれぞれの選択

2015年10月14日(水)18時00分

遺伝病について知るべきか知らずにいるべきか、患者の家族は決断を迫られる fotostorm-iStockphoto

 今年のアカデミー賞では、『アリスのままで』で若年性アルツハイマーの女性を演じたジュリアン・ムーアが主演女優賞に輝いたが、この映画の原作『Still Alice』の著者Lisa Genovaは、脳科学の研究者から作家に転身したという少し変わった経歴の持ち主だ。

 Lisaは自ら認める完璧主義者で、高校生の頃から将来を綿密に設計していた。大学で生体心理学(bio psychology)を専攻して優秀な成績で卒業し、ハーバードの大学院で神経科学(neuroscience)の博士号を取得した。研究者として次々に学術論文を発表し、その一方で適齢期のうちに結婚して子どもを産む目標も実現した。まるで絵に描いたような「成功者」だった。

 だが、まったく計算に入れていなかった挫折が訪れた。

 出産後に職場を離れたのだが、夫婦の仲に亀裂が入って離婚になってしまった。

 シングルマザーでしかも無職になったLisaは、途方にくれた。精神的に落ち込んでどん底を経験しているときにふと思った。「私はこれまで他人の視点で『成功』をとらえて生きてきたけれど、挫折した今はもう失うものはない。他人の評価を気にせずに何をやってもいいとしたら、私は何を選ぶだろう?」。そしてLisaは、アマチュア劇団で演技を学び、小説を書き始めた。

 Lisaが最初に手がけたトピックはアルツハイマーだった。かつて祖母がアルツハイマーになったとき、情報収集の過程で、介護者の立場で書かれた本は沢山あるのに、アルツハイマーにかかった本人の視点を伝える本が無いことを残念に思っていた。コミュニケーションの取れない患者がノンフィクションを書くことは無理だが、科学者であるLisaなら、患者や家族から話を聞いて、創作を通じて患者の視点を正しく伝えられる――。こうしてできたのが『Still Alice』だった。

 アメリカには「出版社の新人賞でデビューする」というシステムがなく、作家志望者はまず文芸エージェントを見つけなければならない。これ自体が難関なのだが、文芸エージェントを見つけることができても、出版社が作品を受け入れる保証はない。Lisaの場合、文芸エージェントは見つかったが、作品は出版社すべてから拒否されてしまった。

 それでもLisaはくじけなかった。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏「ウクライナはモスクワ攻撃すべきでない」

ワールド

米、インドネシアに19%関税 米国製品は無関税=ト

ビジネス

米6月CPI、前年比+2.7%に加速 FRBは9月

ビジネス

アップル、レアアース磁石購入でMPマテリアルズと契
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:AIの6原則
特集:AIの6原則
2025年7月22日号(7/15発売)

加速度的に普及する人工知能に見えた「限界」。仕事・学習で最適化する6つのルールとは?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パスタの食べ方」に批判殺到、SNSで動画が大炎上
  • 2
    日本より危険な中国の不動産バブル崩壊...目先の成長だけ追い求め「失われた数百年」到来か?
  • 3
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」だった...異臭の正体にネット衝撃
  • 4
    真っ赤に染まった夜空...ロシア軍の「ドローン700機…
  • 5
    「このお菓子、子どもに本当に大丈夫?」──食品添加…
  • 6
    「史上最も高価な昼寝」ウィンブルドン屈指の熱戦中…
  • 7
    約3万人のオーディションで抜擢...ドラマ版『ハリー…
  • 8
    「オーバーツーリズムは存在しない」──星野リゾート…
  • 9
    「巨大なヘラジカ」が車と衝突し死亡、側溝に「遺さ…
  • 10
    歴史的転換?ドイツはもうイスラエルのジェノサイド…
  • 1
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首」に予想外のものが...救出劇が話題
  • 4
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 5
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...AP…
  • 6
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別…
  • 7
    イギリスの鉄道、東京メトロが運営したらどうなる?
  • 8
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「…
  • 9
    エリザベス女王が「うまくいっていない」と心配して…
  • 10
    「二度とやるな!」イタリア旅行中の米女性の「パス…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story