決死の嘘が救ったクリムトの肖像画 ──ナチスの迫害を生き延び、史上2番目の高値で落札された1枚
One Painting’s Dark History
紆余曲折を経て奇跡的な生還を果たした『エリザベート・レーデラーの肖像』 ALEXI ROSENFELD/GETTY IMAGES
<グスタフ・クリムトの「エリザベート・レーデラーの肖像」が、20世紀の闇を宿す作品として史上2番目の高値で落札。その背景には、個人史と政治史が交錯する知られざる物語がある>
2025年11月18日、サザビーズ・ニューヨークのオークションでオーストリアの画家グスタフ・クリムトの『エリザベート・レーデラーの肖像』が、匿名の電話入札者に落札された。落札額は2億3640万ドル(約370億円)。
絵画としては17年に落札されたレオナルド・ダビンチの『サルバトール・ムンディ』の約4億5000万ドル(約700億円)に次いで史上2番目、近代美術作品では史上最高額だ。
これほど高い評価の理由は、作品に秘められた深遠な個人的・政治的歴史にある。
高さ180センチ余りの大作は、クリムトの最大のパトロンとして知られるレーデラー家の娘エリザベートを描いたもの。1914~16年に制作され、画家の晩年の装飾的なスタイルを象徴している。
エリザベートは透けるドレスをまとい、中国の伝統衣装を思わせる装飾的なガウンを羽織っている。上半身の背景には様式化された中国人たちが弧状に並び、まるでイコン(東方正教会の板絵の聖像画)の後光のようだ。
幻想的で抽象的で非現実的で装飾的、そして何より豊かでまばゆいばかりの背景とは裏腹に、エリザベートの顔は驚くほどの心理的リアリズムで描かれている。無関心で謎めいて、寂しそうにも見える表情と、不安げな手つき。
その後の歴史を思えば、彼女はウィーンの莫大な富に満ちた世界、知らないうちに滅亡の淵に立たされた世界からこちらを見つめているかのようだ。
「実の父親はクリムト」
レーデラー家はユダヤの名家だった。1938年のアンシュルス(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)後は迫害を受け、一家は離散。しかし離婚して孤独だったエリザベートは、独りウィーンにとどまった。
ナチス政権は反ユダヤ主義政策を推進し、血統的に優れた民族と見なす「アーリア人」と「非アーリア人」に市民を分類。エリザベートは「フォールユーデン(完全なユダヤ人)」として死の淵に立たされた。そこで彼女は生き延びるため、自分の実の父親は彼女の肖像画を描いたアーリア人のクリムトだという噂を流した。

ハンガリーのブダペストに逃れた母セレーナも、娘の実の父親はユダヤ人の夫アウグストではなく、札付きの「恋多き男」クリムトだとする宣誓供述書を提出。この主張には説得力があった。クリムトは長年レーデラー家と個人的な付き合いがあり、エリザベートの肖像画の存在自体が関心と親密さの証しだった。
天才的画家の作品を帝国に取り戻したいナチスは、この嘘を受け入れた。エリザベートが「完全なユダヤ人」ではなく「ミシュリング(ユダヤ人とアーリア人の混血)」なら、肖像画はアーリア人の芸術作品と言える。
エリザベートの決死の嘘はナチスの高官だった元義兄の助けもあって免罪符となり、彼女は「アーリア人との混血」として死の収容所行きを免れた。
肖像画も生き残った。レーデラー家が所蔵していたクリムト作品のうち、ユダヤ人の肖像画は退廃芸術として国外に売却された一方、それ以外の作品は重要な遺産と見なされた。
ナチスは略奪したレーデラー家のコレクションの大部分をインメンドルフ城に移したが、エリザベートの肖像画は新たに浮上した「アーリア人」かどうかをめぐる論争のためウィーンに残された。
45年5月、ナチス親衛隊が城に放火。エリザベートの祖母の肖像画などクリムトの傑作12点余りを焼き払ったが、ウィーンにあったエリザベートと母セレーナの肖像画は被害を免れた。この残酷で恣意的な破壊こそがエリザベートの肖像画を希少な存在にした。

20世紀の闇を見つめて
クリムトによる全身の肖像画で、現存する個人所有のものは2点だけ。2025年11月のオークションは、そんな希少性の高い作品を手に入れられる千載一遇の機会だった。
戦後の数奇な運命も、作品の価値をさらに高めている。この肖像画は1948年にエリザベートの兄エーリッヒに返還され、化粧品大手エスティローダーのレナード・ローダー名誉会長(昨年6月に死去)が85年に買い取った。
多くの傑作が投資目的の金融資産として金庫にしまい込まれているが、ローダーは死去するまで40年間、毎日この絵のそばで昼食を取っていたという。主要機関にも匿名で頻繁に貸し出し、美術史や学術界における知名度を確保したが、公開市場に出すことは一度もなかった。
おかげで肖像画は商品としての価値はもとより、大切にされ十分な裏付けもある文化遺産としても価値あるものとなった。
結局、2億3640万ドルという落札額は単なる需給関係を超えた価値を反映している。匿名の落札者が手に入れたのは、究極の美と同時に、困難を耐え抜いた記憶を宿す遺物。娘の嘘と母親の偽証、忌まわしい体制の虚栄と欲深さによって救われた1枚の絵画が、第2次大戦の瓦礫の中から無傷で現れたのだ。
エリザベートの肖像画は歴史的に重要かつ極めて個人的な作品で、20世紀の悲劇の核心を垣間見る「窓」となる。新たな所有者もこの作品を愛し、金庫にしまい込まないことを祈ろう。
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Benedict Carpenter van Barthold, Lecturer, School of Art & Design, Nottingham Trent University
This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.
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