最新記事

言語学

ナスはドイツ語でもNASU? 言葉はモノに名前をつけることから生まれる

2020年6月16日(火)17時05分
平野卿子(ドイツ語翻訳家)

ドイツ人のおばさんはナスをドイツ語でなんというのか知らなかったため、「ナス」をドイツ語だと思ってしまったのだろう。わたしを見ると、おばさんはにこにこした。「またNASUを買いにきたのね」

もっと驚いたのは、そこへやってきたイタリア人たちが、まるで当たり前のように次々と「NASU」と言って買っていたことだ。イタリア人たちも「NASU」がドイツ語だと思い込んだにちがいない(なお、今ではナスはスーパーで手に入るが、ドイツ語でナスを意味する「オベルジーネ(Aubergine)」は、フランス由来の外来語である)。

言葉は名前をつけることから生まれ、概念に発展する

イギリスの探検家、キャプテン・クックがオーストラリアに到達したとき、見たことのない動物がいたので「あれは何か?」と聞いたところ、先住民アボリジニが現地語で「カンガルー(わかりません)」と答えたために「カンガルー」と呼ばれるようになったという有名な話があるが、これは事実ではない。

だが、この話は言葉がモノに名前をつけることから生まれたことをいまさらのように思い起こさせる。いつの時代でもわたしたちは、名がわからなければ知りたいと思い、なければ名づけようとするのだ。

「NASU」と書いた札を立てたドイツのおばさんも、それまでわからなかった野菜の名前が「わかって」、安心したにちがいない。あのときのおばさんの笑顔が何よりもそれを物語っている。

そもそも言葉というものは、目の前のモノに名前をつけることから始まり、動詞、副詞、形容詞などを経て、やがて抽象的な概念へと発展すると考えられている。

だが、日本では明治維新による急激な西欧化により、「社会」「存在」「観念」など、それまでの日本語にはなかった抽象名詞が次々と造られた。つまり、言葉の自然な発達の道筋を辿ることがなかった。

日本人が抽象的な思考を得意としないといわれる理由の一つに、このことが影響しているのではないかと考えているが、それはまた別の議論が必要であろう。

【参考記事】外国語が上手いかどうかは顔で決まる?──大坂なおみとカズオ・イシグロと早見優
【参考記事】「あなた」はもはや日本語ではない

[筆者]
平野卿子
翻訳家。お茶の水女子大学卒業後、ドイツ・テュービンゲン大学留学。訳書に『敏感すぎるあなたへ――緊張、不安、パニックは自分で断ち切れる』(CCCメディアハウス)、『ネオナチの少女』(筑摩書房)、『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』(河出書房新社、2006年レッシング・ドイツ連邦共和国翻訳賞受賞)など多数。著書に『肌断食――スキンケア、やめました』(河出書房新社)がある。

20200623issue_cover150.jpg
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2020年6月23日号(6月16日発売)は「コロナ時代の個人情報」特集。各国で採用が進む「スマホで接触追跡・感染監視」システムの是非。第2波を防ぐため、プライバシーは諦めるべきなのか。コロナ危機はまだ終わっていない。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

フィリピン中銀、予想通り3会合連続利下げ 年内の追

ワールド

スイス中銀、ゼロ金利維持へ 金融機関の多数が予想=

ワールド

中国政府、価格下支えのため石炭生産を抑制=アナリス

ワールド

ムーディーズ、資生堂を「A3」から「Baa1」に格
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:健康長寿の筋トレ入門
特集:健康長寿の筋トレ入門
2025年9月 2日号(8/26発売)

「何歳から始めても遅すぎることはない」――長寿時代の今こそ筋力の大切さを見直す時

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ女性が目にした光景が「酷すぎる」とSNS震撼、大論争に
  • 2
    「どんな知能してるんだ」「自分の家かよ...」屋内に侵入してきたクマが見せた「目を疑う行動」にネット戦慄
  • 3
    脳をハイジャックする「10の超加工食品」とは?...罪悪感も中毒も断ち切る「2つの習慣」
  • 4
    【クイズ】1位はアメリカ...稼働中の「原子力発電所…
  • 5
    「ガソリンスタンドに行列」...ウクライナの反撃が「…
  • 6
    「1日1万歩」より効く!? 海外SNSで話題、日本発・新…
  • 7
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 8
    25年以内に「がん」を上回る死因に...「スーパーバグ…
  • 9
    イタリアの「オーバーツーリズム」が止まらない...草…
  • 10
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 1
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 2
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ女性が目にした光景が「酷すぎる」とSNS震撼、大論争に
  • 3
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット民が「塩素かぶれ」じゃないと見抜いたワケ
  • 4
    皮膚の内側に虫がいるの? 投稿された「奇妙な斑点」…
  • 5
    なぜ筋トレは「自重トレーニング」一択なのか?...筋…
  • 6
    飛行機内で隣の客が「最悪」のマナー違反、「体を密…
  • 7
    中国で「妊娠ロボット」発売か――妊娠期間も含め「自…
  • 8
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 9
    20代で「統合失調症」と診断された女性...「自分は精…
  • 10
    脳をハイジャックする「10の超加工食品」とは?...罪…
  • 1
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベーション、医師が語る熟年世代のセルフケア
  • 2
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 3
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 4
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大…
  • 5
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 6
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 7
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅…
  • 8
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 9
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 10
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中