コラム

感染症、原油価格下落と首相不在──イラクを苦しめる三重苦

2020年04月28日(火)11時00分

首相がいない、新内閣ができないことで、困っているのはイラク人だけではない。アメリカのトランプ政権も、イラク政権に着手してもらわなければならないことを抱えている。その最大の課題は、イラク国内の米軍の処遇だ。

ソライマーニ殺害事件から2日後、イラクの議会は米軍の撤退要求を採択した。イラクに駐留する米軍は、オバマ政権時代の2011年末に全軍を撤退させて以降は、イラク政府の要請があって派兵することになっている。現在イラク国内に駐留している米軍は、2014年6月に「イスラーム国」(IS)がイラク北・西部を制圧したことに頭を痛めたイラク政府が、米軍に要請した結果派兵されたものである。2017年末にISの掃討作戦が終息して以降は、米軍の駐留必要性は失われたとして、しばしばイラク議会で撤退案が出されていた。スライマーニ殺害事件で、反米ムードが高まり、一気に決定となったのである。

イラク政府が米軍派兵を要請しなくなったということは、今年の年末には米軍は駐留の合法性を失う、ということだ。そのことを含めて、今後の米・イラク関係をきっちり話し合わなければ、と米政権は考えている。その結果、4月7日にポンペオ国務長官が、「6月にはイラク政府と戦略的対話を行う」と発表した。9日にカーズィミーが首相に任命されたことを考えれば、ポンペオの発表はイラク政府に「早く首相を決めてくれ」とのメッセージとなったといえる。

しかし、新首相・新内閣が無事船出したとしても、これは大きな難題だ。1月、トランプは「もしイラクが一方的に撤退を求め、友好的な形で撤退ということにならなかったら、アメリカはイラクに厳しい制裁をかける」と、脅迫ともいえる発言を行っている。

実際のところ米政権は、これまでも対イラン制裁をイラクにも適用するかどうかでイラクに圧力をかけてきた。電力、ガス不足に悩むイラクはイランからこれらを買っているが、対イラン制裁を忠実に適用すると、輸入は禁止される。昨年秋から4か月程度、イラクは制裁対象から外されていたが、2月に免除期間が切れた後はさらに45日の免除延長となった。その期限となる4月末を見越して、イラクはイランからの電力・ガス輸入の75%カットを決めた。

だが、その一方で、3月中旬以降米軍が、次々にイラク国内の基地から引き揚げていることも事実だ。シリア国境沿いのカーイム、モースル近辺のカイヤーラ西、キルクーク近辺のK1、そしてアンバールにある最大のハッバーニーヤ空軍基地を、イラク軍に引き渡した。ソライマーニ殺害以降、バグダード市内のグリーンゾーンはむろんのこと、バラド、タージなどの中北部の基地で米軍が襲撃され続けていたので、駐留を続けることのコストは日に日に深刻になっていたと言えよう。ソライマーニ殺害前から米軍内で撤退計画は組まれていたとも言われており、1月にはその計画がリークされたこともある。

米軍撤退となると、イラク国内の治安はどうなるのか。まず確実に言えることは、米政権が「親イラン・テロ集団」と嫌悪するカターイブ・ヒズブッラーやアサーイブ・アフル・ル・ハックなどのシーア派民兵集団が、かつてISに対してPMU(人民動員機構)を組織して国防に当たったように、イラクの軍事治安部門の中核を担うであろうことだ。こうした民兵組織は、新型コロナウイルス感染拡大に際して、検疫や消毒作業など社会福祉事業でも活躍している。

なんとかアメリカと話ができる首相を擁立しようとしても、社会の実態としては民兵勢力の影響力は確実に伸び、国内政治に定着しつつある。その現実を前に、トランプ政権はイラクとどういう「戦略的対話」を計画しているのだろうか。そして対話ができる内閣がイラクに成立するのは、いったいいつのことになるのだろう。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
コラムアーカイブ(~2016年5月)はこちら

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