コラム

オリンパス事件を受けて正義を考える

2011年11月11日(金)12時04分

 オリンパス事件を受けて、日本企業の統治が問われているという話はよく聞きます。ですが、問題なのは企業経営者だけではないように思います。日本社会の全体における「正義の感覚」が脆弱化している、そうした大きな文脈での理解も必要のように思います。

 考えてみれば「正義」という言葉自体がずいぶんと「遠い」感覚があるのです。最近ですと、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授が「正義について考える」という授業をしているということが評判になり、本が売れたり、実際にサンデル教授が来日して「正義の話」をしたりするということがありました。

 あのサンデル現象というのも、一時的な流行であると同時に「正義」という言葉が「海の向こうにある話」というイメージを与え、逆に日々の生活の中には「正義との距離感」がある、そんな感覚を増幅したように思います。実際はサンデル教授の思想は、同じ正義でも「コミュニティにおける多様性の共存」が前提という極めて現実主義的なもので、スケールの大きな善悪の話ではないのですが、雄弁でありながら若い学生に胸襟を開いたサンデル教授の弁舌を見ていると、「やっぱり遠い話」という印象が独り歩きしたのかもしれません。

 どうして日本社会では「正義」というのは「遠い」のでしょうか?

 少し幅広く、文化という切り口で考えてみたいと思います。まず、直感的に思うのは、戦後の長い間、いや黒船以来の「近代化の遅れ」の中で、「とにかく生き残るためには手段を選ぶ贅沢はない」という「規範意識を断念する」という感覚が染み付いているという問題です。欧米は先行しているから規範とか何とか贅沢なことが言えるが、自分たちは追いつくのに必死なのでそんな「キレイ事」は言っていられないという話です。

 実は現在の日本は「追いつき追い越せ」の時代は過ぎて「追いついた先には目標がなかった」中で、少子高齢化に足元をすくわれつつ、中国などの新興国に追い上げられて「衰退途上」のプロセスに入っているという見方もできるわけで、今度は「衰退の恐怖と戦うためには手段は選ばない」という、これまた後ろ向きの心理があるのかもしれません。

 こういう「坂道を上っている」あるいは「転げ落ちている」という切迫感の中で、「正義=規範意識=安定した意思決定の基準」というものを持つことが難しかったということは言えるでしょう。社会全体の不安定さの反映とも言えます。

 もう1つは、個々人の人生における規範意識の問題です。よく言われるのが「正論や理想論というのは青臭い書生論」であり、「現実を知り、汚れを知ることが成熟」という、個人レベルでの「下降史観」のようなものです。髪を切ってネクタイを締め就職することは魂を売ることだが生きてゆくには仕方がない、そんな人生観があり、その裏返しとして「青春」という時期が異常に美化されるカルチャー、これも「正義」が根付かない背景にあるように思います。

 これに重なってくるのが「正論」や「理想論」は偉く、現実論は格下という「上下の感覚」です。現実とは、利害関係や自尊心の交錯を「さばく」という複雑な処世術を求められる世界であり、自分たちは地を這うようにそうした世界に生きているが、時折「偉そうな理想論」を言われるとバカにされたように感じる、そんなメンタリティもあります。その結果として、「泥にまみれた打算主義」の方が「人間味」があるとか、これが「現実だ」と思ってしまうのです。意味のある規範があり、その規範に沿った定型的な判断を繰り返した方が人生何でもシンプルであるにも関わらず、逆に物事を複雑な方へ、難しい方へと進めてしまうのです。

 更に問題を複雑にしているのが、規範意識を導入する場合の硬直した形式主義です。気がつくと、価値観は多様になって慣習法的な原理原則は共有できなくなっています。そんな中、コンプライアンスの徹底というような「掛け声」が出ると、思い切り形式的で膨大な作業をやってしまうのです。つまり本質論というものを核に持っていないので、例えば、今回のオリンパスのような問題が出てもチェックは働かないのです。制度的に規範意識を高めても、官僚的な形式主義が跋扈するだけになるわけです。

 こうした問題を指摘すると、例えばTPPの結果として外国人弁護士が入ってきたり、IFRS(国際会計基準)が導入されて会計が世界標準になるなどの「ガイアツ」が入ってこないとダメだ、そんな悲壮な意見が出てきそうです。

 確かにそうかもしれませんが、私はガイアツがもたらす混乱の結果の変革というのは余り意味はないように思います。結局は屈服したとか、欧米の標準を押し付けられたという印象が残ってしまうと、正義というものはしっかりとは根付かないからです。

 そうではなくて、物事を複雑化させないで原理原則を徹底した形の判断を定型化することの方が、シンプルだし効率が良いということに、企業なり個人が自発的に気づいて行くようになれば素晴らしいと思うのです。その結果として「便利なもの」としての原理原則、「手っ取り早いもの」としての本質論が当たり前になっていくということ、そうした日本の変化というのは、どうやったら起こせるのでしょうか。今回のオリンパス、あるいは大王製紙の事件などをキッカケに、そうした方向性で考えてみたいと思うのです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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