コラム

ビル・クリントン訪朝と日本外交のズレ

2009年08月05日(水)12時34分

 ビル・クリントン元大統領が平壌へ向かっているという報道が突然流れました。8月3日の月曜日のことです。不法入国という罪名で労働刑務所に入れられているアメリカ国籍の女性ジャーナリスト2名を救出するのが目的というのですが、さすがに元大統領が自ら訪朝するというのですから、何らかのネゴは出来ていると見るのが自然でしょう。実際にアメリカ時間の4日夕刻には「2名の釈放」というニュースが流れています。

 兆候はあるにはあったのです。少し以前から、妻であるヒラリー・クリントン国務長官の口からは「無実だから釈放を要求」ではなく「恩赦を求める」という言い方をするようになっていました。まあ、このあたりは実務的なオバマ政権にとっては「口先でメンツを立てて相手が乗ってくるのなら」という現実的な発想だと思いますが、アジア的な発想では「たいへんな譲歩」という印象を例えば日韓中の3カ国に与えるのは違いありません。

 では、どうしてこの時期に「妥協」なのでしょうか。それはオバマ政権にとって、それが政治的に最も効果的だからです。昨年の選挙で大統領を圧勝させた世論の雰囲気には「もう戦争は当分こりごり」というものがあります。勿論、イラク戦争での「大義」の欠落、アフガンでの苦戦といった具体的な理由もありますが、とにかく「ブッシュの戦争路線には反対」という世論の圧力に乗って政権を奪取したという要素は間違いないでしょう。

 となれば、朝鮮半島においても「緊張エネルギーの緩和」に向かうのは至極当然の行動です。また経済的要因も無視できません。景気には明るい兆しが見えてきたとはいえ、まだまだアメリカ経済は脆弱です。また連邦政府の財政も危機的な状況が続いています。そのような中、軍事費の削減は急務であり、そのための緊張緩和政策という面も濃厚なのです。まして、東アジア圏とアメリカは経済的に極めて密接な関係にあります。そのアジアの軍事外交地図に影響を与えかねない北朝鮮問題に関しても、具体的に対立エネルギーの緩和というシナリオで対処するのは当然だと思います。

 ちなみに、今回の訪朝に関しては、議会筋の根回しも済んでいるようです。アメリカの4日朝には共和党のリンゼイ・グラハム上院議員がNBCテレビのインタビューで「もうカウボーイ外交の時代じゃありません。今回の訪朝を機会に良い動きになればと願っています」と語っていました。隔世の感があるとはこのことでしょう。

 そのビル・クリントン元大統領が平壌入りした丁度同じ頃、日本時間の4日の午前中に、政府の「安全保障と防衛力に関する懇談会」(座長は勝俣恒久東京電力会長)は、防衛大綱の改定に向けた報告書を麻生首相に提出しているのですが、そこでは集団的自衛権に関する憲法解釈の変更を提言すると共に、戦闘機などの国際的な共同開発のため、武器輸出3原則の緩和を求めるという主張をしているのです。

 勿論、アメリカ側はこうした案には賛成の立場ですが、時期が時期だけに「軍事外交の緊張状態を求心力にしたい」とか「緊張がこれ以上高まれば独自核武装などの軍拡競争もあり得る」というニュアンスを依然として含む中での「防衛意識」では、オバマ政権が目指している緊張緩和路線とは大きなズレがあると言うべきでしょう。とにかくオバマ大統領の軍事外交姿勢に積極的に賛同しているのが、日本共産党と広島市長だけという奇妙な状況から、日本の政界は早く抜け出して欲しいものです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、義理の娘を引退上院議員後任候補に起用の

ワールド

ロシア、米特使の「時間稼ぎ」発言一蹴 合意事項全て

ワールド

米上院、州独自のAI規制導入禁止条項を減税・歳出法

ワールド

トランプ氏、ハマスに60日間のガザ停戦「最終提案」
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプvsイラン
特集:トランプvsイラン
2025年7月 8日号(7/ 1発売)

「平和主義者」のはずの大統領がなぜ? 核施設への電撃攻撃で中東と世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 2
    ワニに襲われ女性が死亡...カヌー転覆後に水中へ引きずり込まれる
  • 3
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。2位は「身を乗り出す」。では、1位は?
  • 4
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 5
    砂浜で見かけても、絶対に触らないで! 覚えておくべ…
  • 6
    世紀の派手婚も、ベゾスにとっては普通の家庭がスニ…
  • 7
    あり?なし? 夫の目の前で共演者と...スカーレット…
  • 8
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 1
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門家が語る戦略爆撃機の「内側」と「実力」
  • 4
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた…
  • 5
    定年後に「やらなくていいこと」5選──お金・人間関係…
  • 6
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 7
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 8
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 9
    サブリナ・カーペンター、扇情的な衣装で「男性に奉…
  • 10
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 6
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 7
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 8
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 9
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story