コラム

大江千里が語る、物価高だし生活は大変でもやっぱり「ニューヨークの虜」な訳

2023年09月06日(水)13時05分

マンハッタンを背景にブルックリンに生きる SENRI OE

<ニューヨークの今を「音」と共に伝えてきた大江千里さんのコラムは、今回が最終回。4年間におよぶ長期連載の最後に、読者に送るメッセージとは>

ニューヨークには「音」がある。コロナ禍でセントラルパークが野戦病院と化す状況でも、街から音が消えることはなく、前へ進む力が失われることはなかった。今日も街のあちこちで聞こえるこの「ニューヨークの音」というのは、まさにジャズのような、即興性が生み出す人間ドラマを映し出しているように感じる。

2008年に単身でニューヨークに渡った僕も、いつしかこの街の音の1つになったのかもしれない。

先日、妹と甥が4年ぶりにやって来て21年10月に新しくオープンした展望台「サミット・ワン・バンダービルト」へ昇った。前回来たときにはコロナ前に父が亡くなり、3人で前を向こうとニューヨークを探検した。その後、この街はパンデミックで疲弊したのに進化をやめず、ミッドタウンのど真ん中、グランド・セントラル駅の真横に超高層ビルがそびえ立った。

高さは427メートル、ニューヨークで4番目に高いらしい。91階~93階にある展望台から、目の前に見えるクライスラー・ビルの風格をこの角度で間近に体感し心が震える。世界中からやって来た人たちがうれしそうにこの非日常の景色に声を上げる。

たしか12年前、ここから見えるビルの中の弁護士オフィスでジャズレーベル立ち上げの打ち合わせをした。僕は今までに、そのレーベルから世界へ向けて8枚のジャズアルバムをリリースし、最新作『Class of ʼ88』は今週、全米ラジオ局オンエアチャートで24位となった。

このコラムは終了するけれど......

ニューヨークの街角には、喜怒哀楽が高らかに響き渡る。「その帽子素敵だね」と、通りがかる人が声をかけ、「ありがとう!」と言葉を返す。信号待ちの自転車からは、前方に付けたスピーカーからラテンの音楽が爆音で流れる。けんかもするしダンスも踊る、乾かぬ情熱が秒単位で聞こえてくる。

物価も高いし暮らしは大変なのに、一度住んで「虜」になるとこの街にしかない「音」が響いていることに気付く。名声や富を成した人とホームレスが、信号を待つ間に世間話をする。偏見や思い込みがない、常に新しい発想やオリジナルなものを好む人たちであふれ返る。

時にバナナの皮に滑ってひっくり返り、大声で叫ぶ。「おお神様!」。パンデミックで歯抜けになった路面店もなんのその。街にたくさん転がる「お宝」を発掘しながら、わがもの顔で楽しみまくる。僕もブルックリンで銀行口座の残高をチェックし、「自転車操業」でその日を精いっぱい「声を張り上げ」生きている。

ジャズに引っ張られてこの街に住み始め、いつの間にかここに帰ってくることが日常になった。スメリーな臭いと理不尽な怒鳴り声と救急車のつんざく音に辟易しながらも、どこかこの街の「音」に癒やされホッとする。目標がクリアなら、夢に一歩踏み出す人の背中をグッと押す、この街にはそんな分かりやすい「きっぷの良さ」がある。

このコラムは今月で終わるけれど、僕が紡ぐ「音」はニューヨークに今日も響く「音」とともに、この先も止まらない。今まで読んでくださりありがとうございました。今度はコンサートで会いましょう。大江千里

プロフィール

大江千里

ジャズピアニスト。1960年生まれ。1983年にシンガーソングライターとしてデビュー後、2007年末までに18枚のオリジナルアルバムを発表。2008年、愛犬と共に渡米、ニューヨークの音楽大学ニュースクールに留学。2012年、卒業と同時にPND レコーズを設立、6枚のオリジナルジャズアルパムを発表。世界各地でライブ活動を繰り広げている。最新作はトリオ編成の『Hmmm』。2019年9月、Sony Music Masterworksと契約する。著書に『マンハッタンに陽はまた昇る――60歳から始まる青春グラフィティ』(KADOKAWA)ほか。 ニューヨーク・ブルックリン在住。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

英中銀が金利据え置き、総裁「状況は正しい方向」 利

ビジネス

FRB「市場との対話」、専門家は高評価 国民の信頼

ワールド

ロシア戦術核兵器の演習計画、プーチン氏「異例ではな

ワールド

英世論調査、労働党リード拡大 地方選惨敗の与党に3
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:岸田のホンネ
特集:岸田のホンネ
2024年5月14日号(5/ 8発売)

金正恩会談、台湾有事、円安・インフレの出口......岸田首相がニューズウィーク単独取材で語った「次の日本」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地ジャンプスーツ」が話題に

  • 2

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必要な「プライベートジェット三昧」に非難の嵐

  • 3

    日本の10代は「スマホだけ」しか使いこなせない

  • 4

    「レースのパンツ」が重大な感染症を引き起こす原因に

  • 5

    休養学の医学博士が解説「お風呂・温泉の健康術」楽…

  • 6

    「自然は残酷だ...」動物園でクマがカモの親子を捕食…

  • 7

    この夏流行?新型コロナウイルスの変異ウイルス「FLi…

  • 8

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 9

    ロシア軍兵舎の不条理大量殺人、士気低下の果ての狂気

  • 10

    上半身裸の女性バックダンサーと「がっつりキス」...…

  • 1

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地ジャンプスーツ」が話題に

  • 2

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 3

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国の研究チームが開発した「第3のダイヤモンド合成法」の意義とは?

  • 4

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS…

  • 5

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミ…

  • 6

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 7

    外国人労働者がいないと経済が回らないのだが......…

  • 8

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 9

    「500万ドルの最新鋭レーダー」を爆破...劇的瞬間を…

  • 10

    「レースのパンツ」が重大な感染症を引き起こす原因に

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 7

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 8

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

  • 9

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 10

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story