コラム

イラン映画界の巨星、パナヒ監督の『熊は、いない』が描く社会の裏側とは?

2023年09月13日(水)10時30分
『熊は、いない』

イランの名匠ジャファル・パナヒ監督の新作『熊は、いない』

<イランの名匠ジャファル・パナヒが、映画制作の禁止を乗り越えて挑んだ新作『熊は、いない』は、社会の裏側を鋭く。伝統と現代、そして政治的な圧力との間で揺れ動く人々の生活をリアルに描きだす......>

イランの名匠ジャファル・パナヒが、2010年に、政府に対する反体制的な活動を理由に、20年間の映画制作の禁止・出国の禁止を言い渡されながらも、作品を発表しつづけていることは、『人生タクシー』(2015)を取り上げたときに触れた。そのことが頭にあると、パナヒの新作『熊は、いない』の導入部にはちょっとした驚きがある。

その舞台はどこかの街角だが、ストリート・ミュージシャンが演奏しているのは、どうもターキッシュ・クラリネットだと思われ、商店の看板などに目をやるとその文字はトルコ語のように見える。

映画の舞台と現実の交錯

主人公は、バクティアールとザラというイラン人の男女で、難民状態の彼らは、何とかして偽造パスポートを手に入れ、ヨーロッパへ脱出しようとしているらしい。バクティアールがとりあえず入手できたのはザラのものだけだったが、彼女にはひとりで旅立つ気はない。そんなやりとりが長回しで映し出された後で、「カット」の声がかかり、それが劇中で撮影が進行している映画であることがわかる。

その映画を監督しているのは、登場人物であるもうひとりのパナヒ。といっても彼がトルコにいるわけではない。首都テヘランの自宅を離れてトルコとの国境に近い小さな村に滞在し、リモートで撮影をチェックし、助監督のレザに指示を出している。

この時点ではそれは劇映画のようにも見えるが、物語が展開していくと、ドキュメンタリードラマであることが明らかになる。さらに、難民状態とは異なる状況で、苦境に立たされるもう一組の男女の関係も浮かび上がってくる。

冒頭の撮影では、パナヒとレザが撮り直しについて語り合ううちに回線が切れ、携帯電話も圏外になり、手持ち無沙汰となったパナヒは、村の子供たちや風景などの写真を撮影して過ごすが、後にその行動が問題となる。

村の伝統と現代の葛藤

その村には、女の子が生まれると将来の夫を決めてからへその緒を切るしきたりがあった。村に住む娘ゴザルは、そのしきたりで結婚相手がヤグーブと決まっていたが、ソルドゥーズという若者と密かに恋愛関係になっていた。パナヒは、村の写真を撮るうちに、ゴザルとソルドゥーズが会っているところを撮影したのではないかと疑われる。

政治的な弾圧から逃れようとする男女と旧弊な風習から逃れようとする男女。イラン出身の評論家ハミッド・ダバシが『イラン、背反する民の歴史』に書いているように、イランでは世俗的な中流階級とより信心深い下層階級の間に深い溝がある。パラレルに展開する二組の男女の物語は、分断された双方の世界に光をあてているが、そこで際立つのは緻密な構成や巧みな話術だ。

本作では、パナヒが村に滞在しているという設定を最大限に生かすために、ある要素が重要な役割を果たしている。パナヒが村の写真を撮り始める前後に、そのヒントとなるエピソードが盛り込まれている。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

MAGA派グリーン議員、トランプ氏発言で危険にさら

ビジネス

テスラ、米生産で中国製部品の排除をサプライヤーに要

ビジネス

米政権文書、アリババが中国軍に技術協力と指摘=FT

ビジネス

エヌビディア決算にハイテク株の手掛かり求める展開に
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界最高の投手
特集:世界最高の投手
2025年11月18日号(11/11発売)

日本最高の投手がMLB最高の投手に──。全米が驚愕した山本由伸の投球と大谷・佐々木の活躍

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 2
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃度を増やす「6つのルール」とは?
  • 3
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生まれた「全く異なる」2つの投資機会とは?
  • 4
    ヒトの脳に似た構造を持つ「全身が脳」の海洋生物...…
  • 5
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 6
    「不衛生すぎる」...「ありえない服装」でスタバ休憩…
  • 7
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前…
  • 8
    「イケメンすぎる」...飲酒運転で捕まった男性の「逮…
  • 9
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 10
    レアアースを武器にした中国...実は米国への依存度が…
  • 1
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 2
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披露目会で「情けない大失態」...「衝撃映像」がSNSで拡散
  • 3
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前に、男性が取った「まさかの行動」にSNS爆笑
  • 4
    『プレデター: バッドランド』は良作?駄作?...批評…
  • 5
    ドジャースの「救世主」となったロハスの「渾身の一…
  • 6
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 7
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 8
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 9
    「イケメンすぎる」...飲酒運転で捕まった男性の「逮…
  • 10
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 7
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story