コラム

タクシー運転手に扮して、イラン社会の核心に迫った:『人生タクシー』

2017年04月14日(金)15時15分

<イランの名匠ジャファル・パナヒ監督が、政府から映画製作の禁止令を受けながらも、タクシー運転手に扮し、情報統制下にあるイラン社会の核心を描き出す>

世界三大映画祭を制覇したイランの名匠ジャファル・パナヒ監督は、政府に対する反体制的な活動を理由に、2010年から20年間の映画製作・海外旅行・マスコミとの接触禁止を命じられている。しかしそれでも彼の創作意欲は衰えず、許可なく製作をつづけている。

ベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いた新作『人生タクシー』では、パナヒ監督自身がテヘランを走るタクシーの運転手に扮し、ダッシュボードに置かれたカメラを通して、現代イランを生きる人々の姿が映し出される。タクシーの乗客になるのは、女性教師、交通事故に遭った夫婦、老女たち、パナヒの姪や幼なじみ、知人の女性弁護士などだが、これは彼らの人生の断片の単なるスケッチではない。

この映画の前半で印象に残るのは、3人目の客になる海賊版ビデオ業者の存在だ。車に乗り込んだ彼は、たまたま乗り合わせたふたりの先客が、死刑制度をめぐって議論しているのを目にする。職業柄、映画に詳しいこの業者は、パナヒの顔を知っていて、先客たちが下車すると彼に親しげに話しかける。彼はパナヒに、先客は実は役者で、映画を撮影しているのではないかと尋ねる。

その後、タクシーは、業者を乗せたまま、交通事故に遭った男と動転している彼の妻を病院まで送る。業者は、その夫婦が下車すると、再びこれはすべて映画ではないかと尋ねる。するとパナヒは、否定も肯定もせず、ただ穏やかな笑みを浮かべている。そんな彼の態度には、深い意味が込められているように思える。

これは、パナヒ監督が私たちに判断を求める映画だといえる。但しそれは、この映画が現実かフィクションかという判断ではない。パナヒは、緻密で巧みな構成によって乗客たちから私たちが考える多くの材料を引き出し、ちりばめている。

世俗的な中流階級と信心深い下層階級

この映画を最後まで観て気づくのは、「泥棒」や「強盗」がさり気なく強調されていることだ。映画の導入部では、フリーランスと称する男の乗客が、自分が大統領なら見せしめで泥棒を2、3人死刑にすると発言したことに対して、女性教師が、泥棒は貧しさなどが原因で社会によって作られると反論したため、死刑制度をめぐる議論に発展する。

パナヒが久しぶりに会った幼なじみは、自宅の前で強盗に襲われた体験について語り、防犯カメラに記録された映像を見せる。小学校の課題で短編映画を作らなければならないパナヒの姪は、車内から路上にカメラを向けているうちに、結婚式を終えた新郎が落とした金を、通りかかった少年が自分のものにするのを撮影する。

【参考記事】ホモフォビア(同性愛嫌悪)とアメリカ:映画『ムーンライト』

こうした強盗の強調は、パナヒがかつて監督し、国内で上映禁止になった『クリムゾン・ゴールド』と無関係ではない。ちなみに、海賊版の業者が、ふたりの先客を役者だと推測するのには彼なりの根拠がある。先客の男の言葉が、『クリムゾン・ゴールド』のなかにあった台詞と似ていたと言うのだ。いずれにしても、パナヒがこの過去の作品を強く意識していることは間違いない。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

カタール、ガザ交渉の仲介役見直し 政治的悪用に懸念

ワールド

G7外相、中東・ウクライナ情勢議論 イスラエル報復

ビジネス

訂正-焦点:低迷する中国人民元、企業のドル積み上げ

ビジネス

FRBのバランスシート縮小、25年まで続く公算=N
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画って必要なの?

  • 3

    【画像・動画】ヨルダン王室が人類を救う? 慈悲深くも「勇ましい」空軍のサルマ王女

  • 4

    パリ五輪は、オリンピックの歴史上最悪の悲劇「1972…

  • 5

    人類史上最速の人口減少国・韓国...状況を好転させる…

  • 6

    アメリカ製ドローンはウクライナで役に立たなかった

  • 7

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 8

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 9

    対イラン報復、イスラエルに3つの選択肢──核施設攻撃…

  • 10

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体は

  • 3

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...当局が撮影していた、犬の「尋常ではない」様子

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    帰宅した女性が目撃したのは、ヘビが「愛猫」の首を…

  • 7

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 8

    「もしカップメンだけで生活したら...」生物学者と料…

  • 9

    温泉じゃなく銭湯! 外国人も魅了する銭湯という日本…

  • 10

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 7

    巨匠コンビによる「戦争観が古すぎる」ドラマ『マス…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story