コラム

戦後ドイツ、男性同性愛を禁じる刑法175条、「過去の克服」の重さと複雑さを描く『大いなる自由』

2023年07月06日(木)19時04分

1949年に戦後初の連邦共和国首相に選出されたキリスト教民主同盟のアデナウアーは、1953年に極端なカトリック伝統主義者を家族相に任命し、性に関わる政策に保守的なキリスト教の価値観が反映されるようになる。その後、50年代中・後期から60年代初めにかけて性的保守主義が支配的になっていくが、その変化は実はナチズムの記憶と深く結びついている。

西ドイツが、冷戦体制下で西側に受け入れてもらうために、ユダヤ人虐殺問題と何らかの折り合いをつける必要に迫られたとき、人々は、道徳的議論の焦点を大量虐殺から性的問題へと移行させる戦略をとった。家族と性に関する保守主義こそ不朽のドイツ的価値であると強調することが、かつてナチズムに熱狂したことを、視界からも、その後の記憶からも隠す手段になったのだ。そして、同性愛嫌悪は、キリスト教の庇護のもとで、新たな正当性を与えられることになる。

しかし、1963年に始まるアウシュヴィッツ裁判によって風向きが変わる。その後、リベラル派と急進派は、性の問題に関してキリスト教保守派とナチスとの間には強い同質性があるという考え方を武器に、有力な保守派の代弁者たちを守勢に立たせ、性についての道徳的規準を書き換えることに成功する。

登場人物の図式が、3つの時代を通して変化していく

本作の3つの時代は、こうした変化に対応している。1945年は「相対的に寛容で曖昧」な時期に、1957年は性的保守主義の真っ只中の時期に、1968年は保守派とリベラル派や急進派の立場が逆転していく時期にあたる。マイゼ監督は、そんな3つの時代の背景をほとんど説明することなく、ハンスと他の囚人との個人的な関係を描くだけで、性以外の社会や政治を想像させる。

見逃せないのは、登場人物の図式が、3つの時代を通して変化していくことだ。ハンスは、1957年には、恋人のオスカーと一緒に投獄される。1968年には、公衆トイレで出会って、ともに捕まったレオと親密になっていく。このハンスとオスカーやレオとの関係を描くだけなら、本作は性から視点が広がることはなかっただろう。

だが本作にはもうひとり、ヴィクトールという同性愛者ではない重要な人物が登場する。1945年にハンスがナチスの強制収容所から刑務所に移送されたとき、ヴィクトールはすでにそこにいて、ふたりは同房になる。そのヴィクトールは殺人罪で服役しているため、ハンスが刑務所に舞い戻ると必ず出会う。しかも再会するだけでなく、彼らの関係は、ハンスとオスカーやレオとの関係を凌駕していく。

では、それはどんな関係なのか。1945年、ヴィクトールは同房になったハンスが175条違反者と知った途端、同性愛嫌悪を露わにして、彼を追い出そうとする。そして、仕方なく受け入れたあとも、「触ったら殺す」と息巻いている。ところが、ハンスの腕に彫られた番号から彼が強制収容所にいたことに気づくと、態度が変わり、腕の番号を新しい入れ墨で覆うことを提案し、それを実行する。

ドイツの戦後と切り離せない「過去の克服」の重さや複雑さ

ヴィクトールはハンスを通して過去と向き合うことになったといえる。ナチスを支持して戦った彼が、いままた同性愛嫌悪に駆り立てられて行動すれば、何も変わっていないことになる。そんな彼がハンスに触れて、入れ墨を入れることは、自分の過去を消そうとすることも意味する。

それを踏まえると、性的保守主義の真っ只中にある1957年のドラマもより印象深くなる。同性愛者には絶望感が重くのしかかり、ハンスは激しい喪失に打ちのめされる。そのときヴィクトールは、他の囚人や看守の目も気にせず、彼を抱きしめる。それは性的保守主義に対抗する態度と見ることもできるだろう。

そんなふうにしてハンスとヴィクトールは、3つの時代を通して、同性愛者同士の関係とは異なる特別な関係を築いている。だからこそ、175条が改正され、ハンスが出所したとき、彼にとって性的自由はもはや重要なものではなくなっている。ハンスとヴィクトールは、過去と向き合い、それを乗りこえようともがいてきた。そんなふたりの関係には、ドイツの戦後と切り離せない「過去の克服」の重さや複雑さを感じとることができる。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

ユーロ圏の消費者インフレ期待、総じて安定 ECB調

ビジネス

アングル:日銀利上げ、織り込み進めば株価影響は限定

ビジネス

独失業者数、11月は前月比1000人増 予想下回る

ワールド

プーチン氏、来月4─5日にインド訪問へ モディ首相
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ガザの叫びを聞け
特集:ガザの叫びを聞け
2025年12月 2日号(11/26発売)

「天井なき監獄」を生きるパレスチナ自治区ガザの若者たちが世界に向けて発信した10年の記録

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 2
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファール勢ぞろい ウクライナ空軍は戦闘機の「見本市」状態
  • 3
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 4
    【寝耳に水】ヘンリー王子&メーガン妃が「大焦り」…
  • 5
    【クイズ】次のうち、マウスウォッシュと同じ効果の…
  • 6
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体…
  • 7
    「攻めの一着すぎ?」 国歌パフォーマンスの「強めコ…
  • 8
    がん患者の歯のX線画像に映った「真っ黒な空洞」...…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    7歳の娘の「スマホの検索履歴」で見つかった「衝撃の…
  • 1
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるようになる!筋トレよりもずっと効果的な「たった30秒の体操」〈注目記事〉
  • 2
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 3
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やってはいけない「3つの行動」とは?【国際研究チーム】
  • 4
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネ…
  • 5
    AIの浸透で「ブルーカラー」の賃金が上がり、「ホワ…
  • 6
    海外の空港でトイレに入った女性が見た、驚きの「ナ…
  • 7
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファ…
  • 8
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 9
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベー…
  • 10
    老後資金は「ためる」より「使う」へ──50代からの後…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 10
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story