コラム

G8財務相会議の朝、IMF理事が死体で発見される 『修道士は沈黙する』

2018年03月16日(金)15時00分

つまり、この会議にはケインズの理想が入り込む余地などまったくない。にもかかわらず、ロシェは挨拶でそのことに言及する。そんな発言は、彼に何らかの心境の変化が起こりつつあることを示唆している。

ニュートンとケインズのリンゴの違い

さらに、リンゴの比喩についても確認しておくべきだろう。ロシェは周知の事実として具体的な説明はしないが、これは知っておいて損はない。彼は、ケインズが弟子のハロッドに送った有名な手紙の一部を引用している。その部分は以下のように綴られている。


「私は、経済学はモラル・サイエンスの一つである点をおおいに強調しておきたいのです。私は先に経済学は内省と価値を取り扱うと申しました。経済学は動機、期待、そして心理的不確実性を取り扱うと付け加えておけばよかったでしょう。事実を一定で同質的なものとして取り扱うことがないように、絶えず注意しなければなりません。このことは、あのリンゴが地面に落下したのがあたかもリンゴの動機に依存していたとか、地面に落下する価値があるかどうかや、地面がリンゴに落下して欲しいと思ったかどうかに依存したり、また、リンゴが地球の中心からの距離を誤算したことに依存していたようなものなのです」(1938年7月16日)

これは、ニュートンに傾倒していたケインズらしい比喩だといえる。経済学はモラル・サイエンスであって、自然科学ではない。だから、落下するリンゴも、人間の動機や価値判断、期待、誤算など様々な要素に依存している。ロシェは、ニュートンとケインズのリンゴの違いを思い出させるために、実際にリンゴを落としてみせる。

あるいは、こうもいえる。財務相たちの計画は、ニュートンのリンゴであり、割れるワイングラスは発展途上国の運命を象徴している。ある事情で心境が変化したロシェは、もはや自分の力で計画を阻止することはできないが、心の奥でニュートンのリンゴがケインズのそれに変わることを望んでいる。リーマン・ショックさえも予測し、神のように振る舞ってきた彼は、リンゴを落としたあとで、このように挨拶を締め括る。


「善かれ悪しかれ私たちは神ではない。自分たちの行動のすべての結果を予測することはできません。健康を祝し!」

この挨拶には、ロシェが告解を望む動機が垣間見える。彼は告解を通して、リンゴをサルスに委ねるのだ。

傲慢な天才エコノミストか否か

そこで注目したいのが、もうひとつのポイントだ。ロシェはサルスの著書を読んでいて、彼を会議に招待した。彼の死後、部屋からサルスの著書が見つかり、「自分に死をもたらしても他者を救うための行為ならば自殺ではない」という記述にアンダーラインが引かれていたことがわかる。

それは、ロシェが死んでも、彼が最後に何を成したかがまだ決定していないことを意味する。サルスが沈黙を守れば、ロシェは傲慢な天才エコノミストで終わるが、何らかの行動に出れば、「他者を救うための行為」を成し遂げる可能性が残されている。しかし、ロシェは告解はしたものの、心の底から悔い改めていたとはいいがたい。それでもサルスが行動に出れば、彼に赦しを与えることになる。そこから複雑な葛藤が生まれる。

アンドーは、そんなロシェとサルスの関係に、絶妙のひねりで終止符を打つ。この映画の導入部でロシェは、ある数式を見つめている。ケインズのモラル・サイエンスとは相容れないであろうその数式は、果たしてどんな役割を果たすのか。

ロシェの死後、一枚岩に見えた財務相の間には不協和音が生じる。彼らのなかには、計画に反対でありながら妥協した大臣もいた。しかしそれでも、強硬派の牙城は揺るぎそうにない。そこで切り札になるのが、ロシェがサルスに託した数式だ。強硬派は、ケインズの理想など眼中にないが、数式や数字にはめっぽう弱く、簡単に動かされる。

この映画では、そんな数式が切り札になって、ニュートンのリンゴがケインズのリンゴに変わるところに、痛烈な皮肉が込められている。

《参照/引用文献》
『ケインズ全集 第14巻』ドナルド・モグリッジ編 清水啓典・柿原和夫・細谷圭訳(東洋経済新報社、2016年)


『修道士は沈黙する』
公開:2018年3月17日(土)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー
©2015 BiBi Film-Barbary Films

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

焦点:闇に隠れるパイロットの精神疾患、操縦免許剥奪

ビジネス

ソフトバンクG、米デジタルインフラ投資企業「デジタ

ビジネス

ネットフリックスのワーナー買収、ハリウッドの労組が

ワールド

米、B型肝炎ワクチンの出生時接種推奨を撤回 ケネデ
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」が追いつかなくなっている状態とは?
  • 2
    【クイズ】アルコール依存症の人の割合が「最も高い国」はどこ?
  • 3
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺るがす「ブラックウィドウ」とは?
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    左手にゴルフクラブを握ったまま、茂みに向かって...…
  • 6
    「ボタン閉めろ...」元モデルの「密着レギンス×前開…
  • 7
    主食は「放射能」...チェルノブイリ原発事故現場の立…
  • 8
    『羅生門』『七人の侍』『用心棒』――黒澤明はどれだ…
  • 9
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%…
  • 10
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 1
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 2
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」が追いつかなくなっている状態とは?
  • 3
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺るがす「ブラックウィドウ」とは?
  • 4
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体…
  • 5
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%…
  • 6
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙す…
  • 7
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 8
    【クイズ】アルコール依存症の人の割合が「最も高い…
  • 9
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 10
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 4
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
  • 10
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やって…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story