コラム

「チェスは時間の無駄、金の無駄」のサウジでチェス選手権の謎

2018年01月26日(金)17時35分

とはいえ、宗教的な制約の強いこの国で、最高宗教権威の判断を無視して、はじめてチェスの世界大会が開かれた意味は大きい。

実際、この大会はサウジアラビアの総合スポーツ委員会(スポーツ庁に相当)の後援を受けており、国家のお墨つきを得たことになっている。積極的に娯楽分野の発展を進める最近のサウジアラビアらしい動きといえるだろう。

チェスの本場は実は欧米より中東なのに

ちなみにイスラームでチェスは非合法だと述べたが、チェスはもともとインドで生まれた「チャトルアンガ」という盤上遊戯がイランに伝わって、「チャトラング」となり、これが現在のチェスの原型だとされている。

チャトラングはアラビア語で「シャトランジ」となり、それがヨーロッパに伝わったというのが定説になっている。たとえば、スペイン語でチェスを意味する「エシェドレー」はシャトランジのまえに定冠詞(アル)をつけたものが訛ったという説が有力だ。また、フランス語の「エシェク」や英語の「チェス」は、いずれも「王」を意味するペルシア語「シャー」が訛ったものと考えられている。

つまり、チェスの本場は、欧米ではなく、むしろ中東のほうなのだ。その中東でチェスが宗教や政治に翻弄され、禁止されたり、批判されたりしているのは、歴史の皮肉であろう。

サウジの政治的なライバルであるイランのチェス界でも、興味深い事件が起きていた。イランの女性ナショナルチームのメンバーだったドルサー・デラフシャーニーが昨年ジブラルタルで行われていた国際大会でヒジャーブをかぶらずに試合を行ったとして、ナショナルチームから追放のうえ、イラン国内での試合も禁止されてしまったのである。

ちなみに彼女の弟、ボルナーも、イスラエル選手とオンラインで試合をしたとして、やはりイランのチェス連盟から追放されてしまった。その後、姉は米国、弟は英国のチームに参加することになったようだ。

インターネット上に公開されている彼女の写真をみると、たしかにイランでこれはまずいでしょうっていうのがあるのだが、政治や服装でチェスの世界が右往左往するというのは、どちらにせよいいことではあるまい。

国際チェス連盟のモットーはラテン語で"Gens Una Sumus"というそうだ。日本語だと、「われら1つの民」とでも訳せるだろうか。国の威信がかかってくると、チェスを通じて、みんな仲良くというわけにいかなくなるのは、冷戦期のボビー・フィッシャー対ボリス・スパスキーの米ソ対決のときからかわっていないのである。

【お知らせ】ニューズウィーク日本版メルマガのご登録を!
気になる北朝鮮問題の動向から英国ロイヤルファミリーの話題まで、世界の動きを
ウイークデーの朝にお届けします。
ご登録(無料)はこちらから=>>

プロフィール

保坂修司

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究顧問。日本中東学会会長。
慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。在クウェート日本大使館・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学教授、日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長等を経て、現職。早稲田大学客員上級研究員を兼任。専門はペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論。主な著書に『乞食とイスラーム』(筑摩書房)、『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』(朝日新聞出版)、『イラク戦争と変貌する中東世界』『サイバー・イスラーム――越境する公共圏』(いずれも山川出版社)、『サウジアラビア――変わりゆく石油王国』『ジハード主義――アルカイダからイスラーム国へ』(いずれも岩波書店)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

日経平均は3日続伸、主力株高い 先物主導との見方も

ワールド

イスラエル・イラン紛争6日目に、トランプ氏「無条件

ワールド

訪日外国人、5月は21%増の369万人 桜シーズン

ワールド

タイ、対米通商交渉で20日に輸入拡大など提案へ=商
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:コメ高騰の真犯人
特集:コメ高騰の真犯人
2025年6月24日号(6/17発売)

なぜ米価は突然上がり、これからどうなるのか? コメ高騰の原因と「犯人」を探る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロットが指摘する、墜落したインド航空機の問題点
  • 2
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越しに見た「守り神」の正体
  • 3
    イタリアにある欧州最大の活火山が10年ぶりの大噴火...世界遺産の火山がもたらした被害は?
  • 4
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 5
    ホルムズ海峡の封鎖は「自殺行為」?...イラン・イス…
  • 6
    50歳を過ぎた女は「全員おばあさん」?...これこそが…
  • 7
    【クイズ】「熱中症」は英語で何という?
  • 8
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 9
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?.…
  • 10
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 1
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロットが指摘する、墜落したインド航空機の問題点
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 4
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 5
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタ…
  • 6
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 7
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
  • 8
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?.…
  • 9
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 10
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊の瞬間を捉えた「恐怖の映像」に広がる波紋
  • 4
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 5
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 6
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 7
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 8
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 9
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story