コラム

「お遊びの時間はおしまいだ」

2015年02月05日(木)11時02分

 だがその一方で、脅しは他の有志連合に十分に効いている。ヨルダン人パイロットが拉致されて以降、有志連合の一員、UAEは、一切出撃をしていない。それまで「アメリカのお付き合い」で形だけ参加していた湾岸のアラブ産油国は、ヨルダン以上に軍事的に脆弱である。怯えて手を引いても不思議ではない。

 ヨルダンが最大の頼りとするアメリカも、今後の進退が微妙なところだ。ヨルダンを単独で突っ込ませるわけにいかない。とはいえ、ヨルダンに引きずられて「イスラーム国」相手の全面戦争を決断するにはリスクが大きすぎる。アメリカもまた、26歳の女性ボランティアを「イスラーム国」に拉致されている。

 昨年6月、イラク北部に「イスラーム国」が進軍し、イラクの領土の3分の1を制圧したとき、即座にその危機の大きさ、相手の残虐さを感じたのは、イラク政府だった。むろん、シリア政府はそれ以前から、十分実感している。ただ者ではない相手だと認識して、なりふり構わずの戦闘を展開した。「イスラーム国」に殲滅されたら行き場のない、国家を持たないクルド民族は、背水の陣でこれに対峙している。

 だが、トルコ、ヨルダン、サウディアラビアなど、スンナ派の周辺国の出足は遅かった。内藤正典氏によれば、トルコで「イスラーム国」を脅威だと思うのは昨年秋の段階で6割を切っており、また事件直後のヨルダンですら7割程度でしかない。厳格なイスラーム統治を強要する「イスラーム国」であっても、同じスンナ派に対してはそんなひどいことはしないだろう、という安心感があったのだろう。裏返せば、シリアの現政権やイラクはシーア派なので、「イスラーム国」がいかにそれを異教徒視(タクフィール)しようが、気にしない、といったところだ。

 それが、ようやく「イスラーム国の脅威」がヨルダンまで伝わった。これまでのようなお気楽な気持ちでは、有志連合に関わってはいられない。王子、王女が見た目恰好よく軍服姿で戦闘機に乗り込む様子を宣伝してきた湾岸の君主国も、これからはそうはいかない。サウディアラビアでの新国王の登場、イエメンでの政変など、湾岸諸国のおひざ元も不安材料だらけだ。サスペンスものでいえば、犯人がナイフを閃かせて、「お遊びの時間はもうおしまいだ」といったところか。

 有志連合の足並みを乱す。バラバラになったところで、浮足立ち怒りに冷静さを欠いた国の勇み足を利用して、戦争に巻き込む。この巧妙な「イスラーム国」の挑発に、周辺国がどう対応するか、正念場を迎えている。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:9月株安の経験則に変調、短期筋に買い余力

ビジネス

ロシュ、米バイオ企業を最大35億ドルで買収へ 肝臓

ワールド

ドイツ銀行、第3四半期の債券・為替事業はコンセンサ

ワールド

ベトナム、重要インフラ投資に警察の承認義務化へ
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、日本では定番商品「天国のようなアレ」を販売へ
  • 2
    燃え上がる「ロシア最大級の製油所」...ウクライナ軍、夜間に大規模ドローン攻撃 国境から約1300キロ
  • 3
    中国は「アメリカなしでも繁栄できる」と豪語するが...最新経済統計が示す、中国の「虚勢」の実態
  • 4
    1年で1000万人が死亡の可能性...迫る「スーパーバグ…
  • 5
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 6
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 7
    【クイズ】世界で最も「リラックスできる都市」が発…
  • 8
    中国山東省の住民が、「軍のミサイルが謎の物体を撃…
  • 9
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 10
    中国経済をむしばむ「内巻」現象とは?
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサイルが命中、米政府「機密扱い」の衝撃映像が公開に
  • 4
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 5
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 6
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「なんて無駄」「空飛ぶ宮殿...」パリス・ヒルトン、…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story