コラム

脱皮を始めた都市住民たち

2012年05月20日(日)22時02分

 ここ半年ほど気がついていたのだが、北京の街の表情が以前と違ってきた。「以前」というのはわずか1年あるいは2年ほど前のことで、実はその変化はもうそれ以前から始まっていたのだろうが、わたしがうっかり見過ごしていたのか、それとも本当に全く気づかないところからじわじわと広がり、鈍感なわたしも気づき始めたのがここ半年ということなのかもしれない。

 その変化とは、北京に暮らす人たちの「公共意識」が急速に高まっている、ということだ。ここでいう「公共意識」とは、人々が見知らぬ多勢の人たちと社会空間をシェア、あるいは共有し合っていることをきちんと意識したうえで、どうすれば自分だけではなく他者も気持ちよく暮らせるかということを考え始めた感があるのだ。日本なら公共マナーといわれるものかもしれないが、「マナー」以上の心がけのようなもの、それを人々が自発的に求め始めている。

 そんなもん当たり前だろ、とあなたは思うかもしれないが、北京だけではなく中国ではこういった「公共意識」に関する教育は、これまで共産党政府を頂点にした社会秩序を叩き込まれる教育以外、一般的になされてこなかった。

 これまでそんな中国社会を秩序づけてきたのは、「強者の論理」だ。強者とは例えば共産党、政府、官吏、上司、雇い主、金持ち、持てる者...などで、彼らがそれぞれの場面で優位に立ち、相手を支配する。つまり中国人社会の人間関係は常に「どちらが強者か」で成り立っており、見知らぬ人との間において人々は瞬間的に自分の「優位性」を探り当てるという奇妙な能力を持っている。そうして下位におかれた者は間違いなく受け身を強要される。それを回避するために中国人は常に相手に対する自分の優位性を誇示しようという習慣を身につけているために、中国人は一般に「押しが強い」と思われるのだ。

 特に、北京のような都会に、地方では得ることができないチャンスを求めて人々が流れ込むのが常態化してからは(以前は厳しい戸籍政策に縛り付けられ、容易なことではなかった)、流れ込んだ地方の「勝ち組」がその「勝ち組」意識丸出しで街を闊歩した。彼ら「勝ち組」は自分より弱い者には「道を譲る」ことすらしないどころか、自分以外の他者の存在はもしかしたら視野にも入っていないのではないかと思えるほどだ。

 そして北京戸籍の人間は地方から流れ込んだ人間をそれだけを理由に下に見る。北京戸籍を持たない側は金という「持てる力」でそれを凌駕しようとする。大学を出て北京の一流企業に運良く就職できた者はそのチャンスに恵まれた自分を誇示する...その繰り返し。

 疲れる社会である。わたしもここ数年そんな中国の人間関係にへきえきしていた。この国は確かに金銭的には20年前より豊かになったが、一方で人と人との競争意識、あるいは優劣意識もまたヒートアップした。豊かになり余裕ができたはずなのに他者に対する関心は相変わらず薄く、たとえ街で袖降りあっても乱暴に無表情なままで通り過ぎて行く。少しでも弱みを見せようものなら付け込まれる、いや付け込まれるはずだ、という思いが常に人々にあり、それがここ10年ほどの中国の街を冷たい無表情なものにしていた。

 それが変わりつつある、と気がついたのが、冒頭に述べたとおり、ここ半年のことだ。小さなことなのだが、商業ビルに入ろうとしたら前の人がドアを押さえて足を止めて待っていてくれる、あるいはドアを開けたにもかかわらず見ず知らずのわたしを先に通してくれる。道を渡ろうとしていたら、車が停まって道を譲ってくれる。立ち止まって狭い道を向こうから歩いてきた人に譲ったら「謝謝」とお礼を言われる。またはその逆でお礼を言ったら笑顔が戻ってくる...

 日本社会からすればこれっぽっち、と思うくらい小さなことなのだが、中国でこういったリアクションを期待する方が間違いだ、とこれまでわたしが断言していたことが、少しずつだが目に入るようになってきた。それを見て、人々は他者を競争相手ではなく共存する人たちとして意識し始めていると強く感じるようになった。

 現代中国社会で他者に対して冷たいのは、一つは前述したようにもともと戸籍政策に縛られ、居住地を自由に移動することができなかったため、つまり「よそ者」を警戒するような習慣があったこと。これは中国が農村を中心とした農業社会であったこととも関係しているのだろう。

 もう一つは、他者との関係を薄くすれば政府がタテ型の管理をしやすかったこと。ヨコでつながれば連帯感が増し、かつての天安門事件のようなことも起こりうる。情報伝達や命令系統を政府(あるいは共産党)を中心としたタテ型にしてその一点を見つめさせれば、号令一つで人々が動くようになる。そんな社会形態を中国政府が理想としていたからだ。そうして「強者」に服従させる形の社会管理を進めてきた。

 しかし、現代社会、特に以前と違い、サービス業界が発達した社会では「他者に冷たい社会」はありえない。過去、中国の売り子が客に何を聞かれても仏頂面で「没有」(ない)と答え、同僚とのおしゃべりに夢中になっているのが「中国の特色あるサービス業」だと揶揄されてきたが、さすがに外国人だけではなく中国人も普通にスターバックスでコーヒーを買うような時代になって人々の心構えが変わってきたのではないか。

 今や都会において消費生活は欠かせない。見知らぬ他者との接触も以前よりもずっと増え、そしてそれが日常になった。ネットを使って見知らぬ人と芽生える横のつながりや信頼関係の構築を経て、人々はだんだん公共社会とは自分だけが肩で風を切ってブイブイ言わせる場ではなく、ちょっとした心がけで街で袖振り合った人たちと気持ちよく過ごせる社会のことだ、と気付き始めたようだ。

 もちろん、社会全体が突然変化した、というわけではない。まだまだ他者を貶めることで自分の優位を示そうとする人も多い。たとえば、国営テレビ局である中央電視台(CCTV)英語チャンネルの著名アンカー、楊鋭氏。国内外の論者を招いて英語で討論する彼の番組「ダイアローグ」は人気番組の一つだが、彼が今週、国産マイクロブログ「微博」につぶやいた中国語の書き込みが大きな騒ぎを引き起こしている。

「公安部が西洋ゴミの掃除に乗り出した。西洋流民を捕まえ、無知な少女を保護するため、五道口や三里屯は重点取締地区だ。西洋蛇頭を斬首にしろ。欧米失業者が中国で金集めし、人買いや怪しげな言葉で移民を誘っている。西洋スパイを見つけ出せ。中国人オンナと同居し、情報収集をしている。観光客の名義で日本や韓国、欧米が土地の計量をしてGPSデータを収集している。西洋に媚びを売る女を叩き出し、アルジャジーラの北京事務所を閉鎖し、中国を妖魔化する連中の口を封じて追い出してしまえ」

 今月中旬から中国の公安当局が不法滞在、違法就労の外国人取り締まりを始めたが、それに乗っかった発言としても、英語チャンネルのアンカーとして言い過ぎだろう? 彼は過去に番組に出演した外国人ゲストを罵るつぶやきも残しており、読む者を唖然とさせた。もちろん彼のこれらの言動には正統性はない。ただ「天下のCCTV」の著名アンカーであるという「強み」をカサにきた発言である。

 これが10年前なら「愛国者」たちによって持ち上げられたかもしれない。しかし、たとえ中国語で中国人同胞に向けたものであっても、このような物言いがどれほど礼を失したものであるか、人々は「著名アンカー」の言葉に困惑している。

 この騒ぎを見て思ったのは、少なくとも中国の都会における一般住民の間ではすでに他者をむやみに攻撃する古臭い伝統からの脱皮が始まっているのに対し、中国のメディア界に君臨するCCTVという絶対的「強者」の位置に安穏としている楊鋭氏のような人物はまだまだ「自分の優位性」を武器に戦いを挑み続けるつもりのようだ。だが、こんな「強者」たちがそんな論理でごり押しを続ければ、公共意識に目覚めた人たちにいつか、それほど遠くない日に見捨てられるだろう。少なくとも中国の都市住民たちは少しずつだが、古臭い優劣意識で相手を貶めることからの脱皮を試み、変わり始めている。

プロフィール

ふるまい よしこ

フリーランスライター。北九州大学(現北九州市立大学)外国語学部中国学科卒。1987年から香港中文大学で広東語を学んだ後、雑誌編集者を経てライターに。現在は北京を中心に、主に文化、芸術、庶民生活、日常のニュース、インターネット事情などから、日本メディアが伝えない中国社会事情をリポート、解説している。著書に『香港玉手箱』(石風社)、『中国新声代』(集広舎)。
個人サイト:http://wanzee.seesaa.net
ツイッター:@furumai_yoshiko

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