コラム

世界で進む「糞便移植」が日本で普及していない理由

2022年11月22日(火)11時20分

2000年代に入ると、腸内細菌の研究は飛躍的に進みました。90年にプロジェクトが立ち上げられた「ヒトゲノム計画」は、ヒト遺伝子の全解読という成果の他に、遺伝子解析用の機器も発展させました。遺伝子の大量解析ができる「次世代シーケンサー」の開発によって、一つ一つの腸内細菌を培養して観察しなくても、腸内細菌叢にどのような細菌がいるかを網羅的に調べることができるようになり、07年にはアメリカで「ヒトマイクロバイオーム計画」という人体に棲む細菌を探る国家プロジェクトが立ち上がります。

腸内細菌の研究が進むにつれ、腸内細菌叢の乱れは炎症性腸疾患や過敏性腸症候群などの消化器疾患だけでなく、肥満、糖尿病、関節性リウマチ、うつなど様々な疾患に関係していることが明らかになってきました。ところが、健康な人の腸内細菌叢を細菌培養によって患者に再現することは、細菌の種類が多く構成が複雑なことなどからほぼ不可能です。そこで、健康な人の腸内細菌叢を患者の腸内に移植するFMTが注目されるようになりました。

日本でFMT普及が遅れた理由

もっとも、FMTによる治療は、東洋医学では予想以上に古くから行われており、4世紀の中国の文献には「下痢が止まらない人に、健康な人の便をお尻から入れたら治った」と書かれています。西洋医学では、1958年にEisemanらによって4名の再発性の偽膜性腸炎患者に1~3回のFMTが施され、全例で副作用なく症状が改善されたと初めて報告されました。

FMTが世界的に広まったきっかけは、2013年にvan Noodらが、CDIに対して1回投与で81%、複数回の投与で94%という顕著な再発抑制効果と腸内細菌叢の多様性が回復されたことを示した報告です。

CDIは抗菌薬(抗生物質)を外科手術で大量に使ったり、長期間使ったりすることで、抗菌薬に耐性を持つクロストリジウム・ディフィシル菌だけが異常繁殖して腸内細菌叢が乱れることが原因で発症し、最悪の場合は命を落とします。アメリカでは毎年50万人が罹患し、3万人が死亡すると言われています。

それまでの治療の主流は、なんとか効き目のある抗菌薬を探して投与することでしたが、再発するものは治療が困難でした。その後、アメリカでCDIに対するFMTが通常医療として認可されると、アメリカ、オランダ、中国などで健康な人の便を集めた「便バンク」が設立され、CDI患者に正常な腸内細菌叢を供給できる体制が整うようになりました。アメリカの最大の便バンクOpenBiomeでは、21年9月までに6万回の提供実績を達成しています。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

中国、今後5年間で財政政策を強化=新華社

ワールド

インド・カシミール地方の警察署で爆発、9人死亡・2

ワールド

トランプ大統領、来週にもBBCを提訴 恣意的編集巡

ビジネス

訂正-カンザスシティー連銀総裁、12月FOMCでも
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界最高の投手
特集:世界最高の投手
2025年11月18日号(11/11発売)

日本最高の投手がMLB最高の投手に──。全米が驚愕した山本由伸の投球と大谷・佐々木の活躍

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 2
    ヒトの脳に似た構造を持つ「全身が脳」の海洋生物...その正体は身近な「あの生き物」
  • 3
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披露目会で「情けない大失態」...「衝撃映像」がSNSで拡散
  • 4
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前…
  • 5
    「不衛生すぎる」...「ありえない服装」でスタバ休憩…
  • 6
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 7
    「イケメンすぎる」...飲酒運転で捕まった男性の「逮…
  • 8
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 9
    「腫れ上がっている」「静脈が浮き...」 プーチンの…
  • 10
    『トイ・ストーリー4』は「無かったコト」に?...新…
  • 1
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 2
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披露目会で「情けない大失態」...「衝撃映像」がSNSで拡散
  • 3
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前に、男性が取った「まさかの行動」にSNS爆笑
  • 4
    『プレデター: バッドランド』は良作?駄作?...批評…
  • 5
    ドジャースの「救世主」となったロハスの「渾身の一…
  • 6
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 7
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 8
    「イケメンすぎる」...飲酒運転で捕まった男性の「逮…
  • 9
    筋肉を鍛えるのは「食事法」ではなく「規則」だった.…
  • 10
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 7
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story